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だってサルから進化したって...。

神さまが造られた世界の中で

August 12, 2016

 お父さんやお母さんは学校でどんな風に進化論について聞いてきたでしょうか?歴史の教科書や理科の教科書の中で、「人間はサルから進化した」とか「北京原人」や「クロマニヨン人」について学んだ事を思い起こすことができるでしょうか?

 ところが今では、進化論者でもサルから人間になったという表現はあまり使わないようです。進化論者たちの目から見ても、生きているものの中でサルと人間をつなぐ存在がないからです。その代わりにサルと人間は同じ祖先から由来したと表現するようです。

 以前はこの繋ぐ存在を「ミッシング・リンク」(Missing link)と言っていましたが、最近はその共通の祖先を「猿人」(Ape-man)と呼んでいます。

 PHP研究所から出版されている『人類の進化大研究 』という子ども向けの本の中では、「現在ヒトに最も近い動物は、チンパンジーとボノボ(ピグミーチンパンジー)です。チンパンジーと共通の先祖から枝分かれしてヒトの祖先が誕生して以来、現在のヒトにつながる枝の側にいたものをすべて合わせて、『人類』と呼びます。チンパンジーの次にヒトに近いのがゴリラで、その次がオランウータンです。」(河野礼子監修『人類の進化大研究』PHP研究所 2015年 p.9)と表現されています。

 

 また「人類は、チンパンジーに近いものの、今のチンパンジーから進化したのではなく、チンパンジーとの共通の祖先から進化して生まれました。人類が進化してきた時間と同じ時間をかけて、チンパンジーも進化してきているため、今のチンパンジーは共通祖先と全く同じ生き物と言うわけではないのです。」(前掲書 P.9)と説明しています。

 進化論の大前提は「神なき世界」 です。神の存在を否定して、すべての始まりを説明しようとしています。後に触れるように科学的なものか、非科学的な信仰という心や精神的なものなのかということではなく、神の存在を認めるか、認めないのかということが明示されていなくても、大前提だという視点は重要だと思います。

 神さまがいると思いますか?

 神さまがいつも一緒にいてくださること。愛してくださっていることをどう考えますか?

 神さまがいないと考えるなら、自分が存在していることや世界の始まりについてどんな答えをどこで見つけるでしょうか?

 そんな問いの答えを考えてみて欲しいと思います。

 

進化という考え方

進化論の解説を見る

August 04, 2016

 まず、進化論ということばが何を意味しているのか確認してみたいとおもいます。

『大辞林 第三版』の解説では「生物は造物主によって現在の形のまま創造されたとする種の不変説に対して,原初の単純な形態から次第に現在の形に変化したとする自然観。一九世紀後半ダーウィンらによって体系づけられ諸科学に甚大な影響を与えた。」とありました。

 デジタル大辞泉の解説としては、「生物のそれぞれの種は、単純な原始生物から進化してきたものであるとする考え。ラマルクの用不用説、ダーウィンの自然選択説、ド=フリースの突然変異説などがある。現在では主として進化の要因論をいう。」と解説しています。

 この二つの説明は、「自然観」や「考え」と説明していることに注目して欲しいと思います。『日本大百科全書(ニッポニカ) 』の解説の冒頭部分には次のような表現で記されています。

 

 「生物はその形態のみならず、生理、行動、生態にわたり著しく多様であり、しかもそれぞれの生物はその生活環境にうまく適応して生きているかにみえる。この多様性と適応性を、地球上で生物が誕生して以来、長い時間経過のなかで動的に変化・展開してきた過程として説明する試みを、広い意味で進化論あるいは進化理論という。

 ヒトを含めた生物の由来への関心は、いわゆる創世神話をはじめ多くの例にみることができる。われわれが何であり、どこからきたのか。この問いかけの動機とその答えへの納得が一般にはいまも進化論を背後から貫いている。しかし、そうした由来についての「神話的説明」や神学的、宗教的説明を排除し、近代になって進化論が科学理論としてそれなりに確立してきているが、不明な点、つまり明示的に説明されるべき論点がいっそう増えてきたことも確かであり、それらの問いへの答えは未来に向けて開かれている。[遠藤 彰]

 

 ここでは「説明する試み」と表現されています。最後にもう一つ、ウィキペディアでは「進化論(しんかろん、英: evolution theory)とは、生物が進化したものだとする提唱、あるいは進化に関する様々な研究や議論のことである。」とありました。

 同じウィキペディアの「進化論」という項目の中で「進化論と宗教」の項目で「『生物は進化する』というテーゼは現在では学会で科学的仮説として受け入れられているが、信仰的、社会的に受け入れられているとは限らず、アメリカには進化論裁判の例がある。アメリカ合衆国の南部などいくつかの州では、プロテスタントの一部に根強い聖書主義の立場から進化論が否定されている。」とあります。

 

 ここでは「仮説」という表現が使われています。

 

 このように仮説と述べる立場がある一方で、「生物の進化が事実として承認されるまでは,生物進化の説を進化論と呼んでいたが,現在では主として進化の要因論をいう。」(百科事典マイペディアの解説)や「進化は実証の難しい現象であるが(現代では)生物学のあらゆる分野から進化を裏付ける証拠が提出されている」(ウィキペディア)という解説もあります。

 

 実は「進化論」を定義したり説明したりするのは、様々な説があって詳細に関しては立場や考え方の違いもあり難しい側面があります。ここでは大枠で理解しておきたいと思います。

 

 これらの解説の引用元は、コトバンクとウィキペディアですので、各サイトで「進化論」で検索すれば確認できます。

進化か、創造か?

『神なんていないという前に』より

August 09, 2016

 ブログの中で紹介している『神なんていないという前に』の中で、「進化か、創造か?」というテーマで次のように説明しています。

 

 生命の起源については、大きく、進化論と創造論の2つの見解があります。

 

 進化論は、長い時間の中で、分子が偶然結びついて・・・単細胞生物になり、これが進化して・・・現在の様々な生命体になった、という主張で・・・

 創造論は、創造主によって万物が造られたという主張です。

 

 進化論には、少なくとも次の7つの仮定が必要になります。

 

1. 無生物が偶然、生命体として現れた。

2. その自然発生は、たった一度だけ起きた。

3. ウィルスとバクテリア、植物と動物はすべて相互関連性を持っている。

4. 原生動物が後生動物を生み出した。

5. 各種の無脊椎動物は、相互関連性を持っている。

6. 無脊椎動物から、脊椎動物が現れた。

7. 魚類から両生類が現れ、両生類から爬虫類が、爬虫類から鳥類と哺乳類が現れた。

 

 この7つの仮定をすべて受け入れるよき、進化論が可能になります。

 

 でも、この7つの仮定の実験的証明は不可能です。進化論者は、ある一連の出来事が過去に起きたと仮定しますが・・・もし現在、似たような出来事が起きたとしても・・・それは必ずしも、過去に発生したことを意味しません。

 結局これは希望であって、根拠が不十分な信念に過ぎないのです。生物学が始まって以来、生命体の自然発生が観察されたことはありません。実験室で、生命体を合成しようという実験が続けられていますが・・・どれだけ科学が進歩しても不可能でしょう。

 

 もし生命体が造られたのなら、それは誰かが細部まで関わったと考えられます。いのちの源になる存在なしに、生命の起源を説明することは出来ないからです。

 

 進化論を擁護する人々は、自分たちの主張が科学的で・・・創造論は非科学的な信仰の問題に過ぎないと言います。

 この問題に関して、科学と信仰は両立できないと考えます。信仰的なアプローチよりも、科学の方が優れていて合理的だと主張します。

 でも生命の起源は、厳密には科学的領域の問題ではなく、信仰的領域の問題と言えます。

つまり、創造論と進化論の論争は、結局、有神論か無神論かという問題なのです

 

『神なんていないという前に』 いのちのことば社 2012年  P.47-P.52

 大前提として『神の存在』を「認めるのか」 、「認めないのか」 が二つの論の違いということです。創造論はもちろん「有神論」であり、神が万物の創造者であると信じます。一方、進化論は神を認めない、神抜きの考え方ですべてを説明する「無神論」なのです。出発点が無神論だということは、はっきりと教えられることはないでしょう...。

 『神なんていないという前に』の中では、進化論と創造論は、科学的領域ではなく信仰的領域だと表現しているのが興味深いと思います。

 ただこの点は、私たちがこの世界を見る見方、自分自身存在や生き方を考える時、そして、他者との関係やこの世界との関わり方に大きな影響を持っていることを知って欲しいと思います。

信仰と科学

中村昇氏・中村佐知氏のブログより

August 09, 2016

 フランシス・コリンズ氏の『The Language of God』の邦訳『ゲノムと聖書』(NTT出版  2008年)の翻訳者である中村昇氏と中村佐知氏がご自身のブログにおいて「信仰と科学」について書かれていた文書を引用してみたいと思います。

 ちなみにオリジナル・タイトルの” The Language of God”(神の言語)とは、邦題にあるように「ゲノム」を指しています。フランシス・コリンズ氏は、米国国立ヒトゲノム研究所の所長であり、国際ヒトゲノム計画のリーダーを務めた方です。一流の科学者であり医師である彼が、DNAコードを、神が生命を形作るのに用いた「言語」と位置付けていることを示唆しています。コリンズ氏はクリスチャンであり、信仰は彼の知的生活の根幹を占め、研究活動ですら礼拝行為であると述べているほどの熱心なクリスチャンです。翻訳者のお二人も同じように熱心なクリスチャンです。

 

 今回の引用は、翻訳者の中村夫妻が出席している教会の礼拝の中で、牧師が語ったメッセージの内容についての記事です。

 

 パスターは、聖書と科学は敵対しあうものではなく、どちらも正しく理解されるならば、本来調和するものであると言った。・・・

 科学とは、「HOW(どのようにして)」ということを探求するものであるのに対して、聖書の創造の記述が私たちに語っているのは「WHO, WHAT, WHY(誰が、何を、なぜ)」である。また、聖書の記述には、字義通りに解釈すべき箇所と、比喩表現または象徴的表現として解釈すべき箇所があるのも忘れてはならない。

 

 ・・・創世記1章には、「神は二つの大きな光る物を造られた」とあり、大きい方には昼をつかさどらせ(太陽)、小さい方には夜をつかさどらせ(月)、また星を造られた、とある。この箇所を文字通りに理解しようとすれば、天空には太陽と月という二つの光の源があり、月は星よりも大きいということになる。しかし現在の科学では、月は光を発していないし、月より大きい星は無数にあることは周知の事実。では、聖書の記述は間違っている、ということになるかといえば、そういう問題ではなく、当時の読者にわかるように表現したのだろうと言える。また、現在の私たちは、地球が自転しているのであり、空が回っているわけではないこともよく知っている。聖書には「日が昇る」「日が沈む」という表現が出てくるし、私たちだって日常的にそういう表現を使うが、だからといって、聖書が間違っているとか、私たちが非科学的だというわけではない。慣習的にそういう表現を用いているだけで、それによって科学的真理を述べようとしているのではない。また、黙示録に「地の四隅」という表現が出てくるからといって、地球が四角い平べったい形をしているわけではないことも現代の私たちはよく知っている。(昔はそう思われていたらしいけど。)

 

・・・. 1916年に、科学者たちに「人間と個人的な関係持つような『神』の存在を信じますか」と尋ねたところ、40%が信じると言ったらしい。その後1990年代になってから、再び同じような設定で、科学者たちにまったく同じ質問をしたところ、神の存在を信じると答えたのはやはり40%だったそうだ。増えも減りもしなかった。70年以上の間に科学は相当進歩したはずなのに、新たに蓄積されたデータによって、さらなる人たちが神を信じなくなったわけでもなく、信じる人が増えたわけでもなかった。結局のところ、科学のデータそのものは神の存在に関してはあくまで中立であって(それが科学のルール)、それをもって神を信じる、信じないの結論を導き出すのは、個々の人間の心の問題、信仰の問題だからなのだろう。

 

 ・・・パスターは言った。教会にとって大切なのは、この世に神を指し示すことです。

 

 

(『クリスチャンにとっての創造論vs.進化論って?』 2007年9月24日の記事より)

 

Howではなくて、Who,What,Way?

聖書が告げること

August 10, 2016

 科学とは、「HOW(どのようにして)」ということを探求するものであるのに対して、聖書の創造の記述が私たちに語っているのは「WHO, WHAT, WHY(誰が、何を、なぜ)」である。という文書を引用しましたが、聖書が私たちに語り告げ、私たちに指し示していることは、この世界が存在すること、そして、その中に私たちが人間として存在していることに関して、どのようにして存在するようになったかではなく、誰が、何を、何故という事柄なのだということです。

 人間にとって重要な三つの命題があります。

1. 私たちはどこから来たのでしょうか?

2. 人間のいのちの意義・目的はなんでしょうか?

3. 死後、私たちはどこへ行くのでしょうか?

 進化論から導き出される答えは「偶然」でしょうか。一方、創造論では「神さまが造られた」 となるでしょう。

 聖書は、神さまが、目的をもってすべてを創造し、それゆえにその存在に意義があることを告げます。それだけでなく、やがて神の御許に帰ることをも告げているのです。

 この世界の始まりについて、そして、この世界の終わりについて、すべてを神の御手の中にあることを聖書告げています。

 創造論を元に見るならば、神から愛されている存在として自分、いのちの尊さ、人生の意義を、創造の御業の中に見るでしょう。進化論を元に見るならば、弱肉強食が根底にあり、ヒューマニズム(人間中心、自分中心、相対的な価値観)が価値基準に影響を及ぼすでしょう。

 視点を変えてみるならば、種の起源のみならず、この宇宙の始まりについて、いのちの定義について、善と悪という価値基準についても、どう考え、どう答えを導き出すのか...。

 聖書はHowについて物語るのではなく、Who,What,Whyについて明確に物語ることを知って欲しいと思います。

 

創世記1章をどう読むか?

聖書の解釈の一例

August 10, 2016

 旧約聖書学者の一人、ジョン・ウォルトン氏の聖書解釈をひとつの例として挙げてみたいと思います。

彼は、特に、聖書のテキストを解釈するにあたり、聖書の本来の読者である古代ヘブル人の文化や世界観を知っておくことの大切さ、テキストの意図に忠実に読むことを強調しています。

 聖書の本来の読者という意味は、最初に聖書の中に書かれていることが告げられた聴衆がいるということです。創世記を例に挙げると、明らかにへブル民族に対して語りかけられているもので、彼らの文化やその当時の世界観の中で語られ理解されたということが大切でしょう。それは21世紀の日本とは明らかに異なる文化や世界観が根底にあるということです。

 さて、創世記1章の解釈のポイントの第一番目ですが、「創世記1章の神による六日間の創造の記述は、この宇宙の物質的(material)な起源に関するものではなく、この宇宙の機能的(functional)な起源に関するものである。」というポイントです。

 これまでの表現の仕方では、Howではなく、Who、What、Whyという見方になるでしょう。

 

 日本語の聖書で「創造した」と訳されているヘブル語の「バラ―(ローマ翻字ではbara)」は約50回でてきますが、この言葉は、baraする主体が神である場合に用いられています。

 神がbaraするものは、物質とは限らず、抽象概念(例えば清さなど)や現象(風、炎、災害など)をbaraされる場合もあります。古代では「存在」とは、それを構成する物質によって定義されるのではなく、その機能によって定義されます。

 

 創造の最初の三日間では、神は、この地上での人間の生活基盤となるべきもの、すなわち時間(1日目)、気象(二日目)、食物(三日目)に関する秩序をお与えになっています。ここに登場する物質そのものも、神様がどこかの時点でお造りになられたはずですが、創世記1章のこの箇所で神さまが言わんとしていことは、これらの物質に神さまが付与した「機能」に関する秩序を神が最初に創造した、ということであると述べています。

 

 例えば、「光」とは、私たちは通常「物質」とは考えないけれども、物理学的には粒子なので、物質と言えます。1日目に神が「光よあれ」とおっしゃったとき、神はその時に光の粒子を作られたという意味ではなく、すでに創造しておられた光の粒子に、闇と区別をつけるという「機能」をお与えになり、それを「昼」、そして闇は「夜」と名付け、「夕があり朝がある」という時間の秩序をお造りになられたと考えることができます。

 

 創造の四日目から六日目めは、最初の三日間で設定された機能の担い手(functionaries)が設定されます。四日目には太陽と月と星が造られ、「昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て」と言われます。(ちなみに、この時代の「季節」とは、今日でいう四季ではなく、種蒔きの時期とか収穫の時期とかいう「季節」を意味しています。)五日目には地上のそれぞれの場所を満たすべき生き物が創造されます。彼らの機能は、生んで、増えて、地や水や空を満たすこと。六日目には、人間を含む、さらなる生き物が創造されます。ここで定められる機能は、「地を満たす」ために「種類に従っ て」増えること。人間にはさらに、「地を従える」という機能が定められるのです。

 二つ目のポイントは、七日目についてですが「神はこの宇宙をご自身が住まわれる『宇宙的神殿(cosmic temple)』 として創造された。」という解釈です。

 七日目の休息とは、神がその神殿に入られたことを意味します。神が神殿でなさることは、この世を支配し、治めること。ここでいう休息とは、神が定められた秩序と支配の完成に伴うものであり、ただ仕事をしないとか、昼寝をするとか、リラックスするという意味ではありません。神が神殿におられるとは、この世が神のご支配のもとにあるということを意味していると理解します。

 ですから、私たちにとっての安息日も、日々の生活の中で自分が握ってしまっていたさまざまな支配を手放して、もう一度この世、また自分の人生における主の支配を認める日、と言えるでしょう。それを認めるからこそ、安息できる訳です。

 これは聖書を解釈する、一つの例であって、唯一の解釈ではありません。クリスチャンが創世記の記事をどのように読み、また理解しているかについての一例です。

God vs. Science

ドーキンスとコリンズの対談

August 10, 2016

 たとえば、『神は妄想である』の著者であるリチャード・ドーキンスは率直な無神論者であり、かつ、創造論、すなわち「人間性や生命、世界は神によって創造された」という宗教的信念に対する熱烈な批判者と紹介されています。もちろん、宗教と科学は両立しえないと考えています。

 ところが、2009年に出版された「The greatest show on earth: The Evidence for Evolution.」(邦題『進化の存在証明』)に関するニューズウィーク誌のインタビューの中で、「新刊でも進化論と神への信仰は相容れないものだという立場を取っているのか」という質問に、「ノー」と答え、その素晴らしい例がフランシス・コリンズだと言っていたといことでした。

 実は、前にも触れたように、コリンズ自身はクリスチャンであり、科学者であり、医者であり、同時に自分は進化論を信じていると公言してはばからない、有神論者であり進化論者である。創造を信じると同時に進化を信じるクリスチャンなのです。

 『神は妄想である』 が出版されたのが2006年のことで、『進化の存在証明』 は2009年なので、その間約3年の間に、ドーキンスの内面に変化があったということでしょうか...。

 2006年9月にドーキンスとコリンズによる対談がタイム誌に掲載されていました。この中で、ドーキンス自身も、神のような偉大な「何か」の存在がこの宇宙の創造の背後にあることを、ある意味認めていることが表現されています。

 ただ、それが何かと特定することは今の科学ではできないので、科学者の使命としてその探求を続けるべきだと彼は言っている...。どうにも説明できない事柄があるからといって、時間や自然法則のすべての枠外に存在するという「神」を持ち出してしまうのでは、話はそこで終わってしまうし、科学者のすべきことではないと述べているのでした。

 (科学者が探求しつつも、見つけられないでいることの)答えは神だと思いますか?というタイム誌の質問に、ドーキンスは、「現在の我々の理解を越えた驚くべきほど壮大でとうてい理解しきれないような何かがあるかもしれない」と答えた。そこにコリンズが「それが神ですよ」とすかさず突っ込むと、それに対するドーキンスの返答は、なんと、ノーではなく「イエス」と。ただし、その神が何であろうとも、聖書の神である可能性だけは、とてつもなく低いと思うと彼は主張します。

 対談の一番最後でも、「…自然界について説明するの に、知的なデザイナーなどという概念を持ってこなくても、私は十分な説明ができると思うが、それでも、知的なデザイナーという概念は、一目置くに値する壮大な考えであるとは思う。ただ、その知的なデザイナーが、人間が考え出した神であるというのが納得できない。オリンピアの神々だとかイエスがやってきて十字架で死んだとか、そんなことは宇宙のデザイナーである壮大な神に値しない。あまりに偏狭すぎる。もし神が存在するなら、どんな宗教のどんな神学者が提示した神よりも、はるかに壮大で、はるかに理解し難い存在であるはずだ。」

 フランシス・コリンズのような神の創造を信じ、同時に進化論も受け入れるというクリスチャンがいないわけではない。それでも今はまだ少数派でしょう。

 ただ、信仰か科学か、進化か創造か、二つに一つの選択しかないのではなく、自分の内側で両立させることができる人たちの存在もあるのだということを知って欲しいと思うのです。

 神学というキリスト教の理解の仕方においても、様々な考え方、様々な立場があります。あまり例としては良くないかもしれませんが、カトリックとプロテスタントの考え方の違いだって、違っていても否定されるべきものではなく、何故そう考え、それゆえ何が生み出されて来るのか理性的に考え受け止める事は出来るのです。

器と使用者

聖書の解釈の一例

August 14, 2016

 もう一つ聖書の読み方(解釈の仕方)の例をあげていみたいと思います。旧約学者のブルース・K・ウォルトキー(Bruce K. Waltke) 氏の解釈です。

 ウォルトキー氏は、創世記註解(GENESIS a commentary)において、創世記1章2節の「茫漠として何もなかった」”Now the earth was formless and empty”における、「茫漠」” formless”と「何もなかった」“empty”という表現をキーワードとして、創世記1章1~31節の創造物語の構造を説明しています。

 第一日目から第三日目までは、「茫漠」”formless”に対して「」”form”が対応し、第四日目から第六日目までは、「何もなかった」“empty”に対して「満る」”full”が対応しています。

 別の見方をすると、1-3日まではリソース(資源あるいは仕様)” The Resource”としてのが用意され、4-6日までで、その使用者”The Utilizer”としての中身が創造されたことを告げ知らせるという構成で記されていると解釈しています。

 また、遠藤嘉信氏は、「初めには、あくまでも人間の側から観察した「初めに」であって、私たちの祝福のための「初めに」なのです。神は、この「初めに」の前に存在されました。そして、キリストもまた神とともに、この「初めに」の前に存在されました。…だから、この「初めに」は、単なる「世界のことはじめ」のことではなく、神の人類に対する愛のみわざの始まりであり、そのご計画とご意思を具体的な行動に移される特別の時を意味しているのです。(遠藤嘉信『初めに、神が』いのちのことば社2007年 p.7-p.8)と述べています。

 

 聖書が語りかけているメッセージは、単にこの世界が造られた始まりについて述べているのではなく、私たち人間との関わりについて、もっと言えば私たちと神さまの関係の始まりについて描き出しているのが、この創世記冒頭の創造物語でしょう。

図書館でみつけた バイバイしんかろん

すがわらみちこさんの絵本

August 15, 2016

 すがわらみちこさんの『図書館でみつけたバイバイ進化論』(岩の上の小さなお家 2016年)という絵本を見つけました。2007年に出版ていましたが今年改訂され出版されました。

 

 著者のあとがきいは次のように書かれていました。

 

 進化論の教育を受け、そのまま長く進化論を信じてきました。その後、創造論に出会い、人間の目で見ることは出来ませんが、すべてのものを造られた本当の神さまと出会いました。美しい花や可愛い動物、不思議な虫を見て「すばらしい!」と感動します。「どうしてこんなに素晴らしいの?」という素朴な疑問...それは「わたしを捜しなさい。わたしを見つけなさい」という神さまの声だったのです。(P.31)

 

 絵本のタイトルにあるように、図書館にある本で進化論に関連した内容を調べたことを題材に描き出しています。

 小学生低学年には、漢字にルビがふられていないこともあり、少し難しいかもしれませんが、なかなか興味深い一冊です。

 「進化か、創造か?」のタイトルで、進化論の7つの仮定を引用していますが、第一番目の

「無生物が偶然、生命体として現れた。」という家庭 についても、「パスツールの実験」というテーマで、次のように書いています。

 

長いあいだ、生命は自然に

発生すると考えられていたんだって。

だけど1864年、パスツールという学者がある実験をしたよ。

フラスコの中に合成培養液をいれて

無菌状態にしておいたら、

いつまでたっても

何も変化しなかった。

 

「この実験で、生命が自然に

発生するという考え方は

完全に否定された」って

百科事典に書いてあったよ。

それなのに、進化論者は

この実験を正しいとしながら

100年、1000年では無理だけど

何億年もたつうちに、ひっとして、

いや、ゼッタイ生命は自然発生する

っていってるようだよ。

 これは、小学館から出版されている「日本大百科全書」からの引用だとありました。科学的に生命は自然発生しないと認めつつ、それを、短い時間ではありえないことが、長い長い時間の中では起こり得ないはずのことが起こったと仮定するのです。

 それは奇跡を信じる信仰のようにも感じます。(ただし、ここではその信仰を肯定も否定もしません。)

 子どもの世界で、どちらが正しいか、どちらが間違っているかという白黒はっきりさせたいという気持ちは十分理解できます。それは大人も一緒かもしれません。

 けれども、どちらかを正しいとすれば、他方は間違っているとなり、否定してしまうことでは解決にならないこともあるように思います。そこが難しいところなのですが...。

 進化論を否定するなら、学校で教えられていることを否定することになるでしょう。先生のことばも、権威も、立場も...。

 創造論を否定するなら、幼稚園で教えられていることを否定することになるでしょう。先生のことばも、権威も、立場も....。

 幼稚園で教わることは幼稚で学校で教わることは高次な内容だと、自分の方が上だという気持ちもまた、進化論の副産物かもしれません。信仰と科学という区分で上下関係を主張することもにも同じよう響きが感じられます。

 違う考え方を否定しないこと。

 違う立場を尊重し合えること。

 進化論と創造論の構図は、決して対決のみではありません。ただ、対立姿勢を明確に貫いている人々の存在がメディアやインターネットの世界では鮮明に目に映ることが多くあります。ですからどちらかが、どちらかを科学的でないとか、間違っていると論破を目的としている資料が目に付きやすい現実があります。

 

 考え方の違いについて、立場の違いについて、どうしてそう考えるのか、それはどんな意味があるのか、そして、自分はどう考え、何を信じて生きるのかということを冷静に、客観的に見ることができる目を育む営みの手助けをできたらと思いました。

(バイバイしんかろんは、アマゾンでも購入できます。)

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