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January 31, 2017

2月の聖書のみことば 新約聖書 ヨハネの福音書 3章16節

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

 

1. 背景

 

 ニコデモという名前のユダヤ人の指導者が、イエスの元を訪れます。彼はパリサイ派に属するユダヤ教徒として紹介されています。

 このニコデモは、あたかも人目を避けるように、夜、ひそかにイエスの元を訪れて対話をしています。イエスはニコデモとの対話の中で、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネの福音書3章3節)と語ります。これに対してニコデモは「人は、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」(4節)と問いかけます。

 

 「新しく」とイエスが語られた言葉は、「上から」という意味もある言葉で、「神から」という意味の婉曲表現と理解できます。イエスが言った言葉の意味は、この世界への(新しい)肉体的な誕生ではなく、神さまによって新たに生まれ変わる霊的な誕生を指していました。

 

 旧約聖書の中で、神に対する不信の裁きが蛇によってもたらされた記事が民数記21章に書かれています。蛇が民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死にました。しかし民が悔い改めると、主なる神はモーセに青銅の蛇を作り、旗竿に付け、掲げるように命じられます。主なる神は、モーセを通して、この青銅の蛇を仰ぎ見るならば、生きると語られました。そして、蛇に咬まれても、その言葉を信じて仰ぎ見た者は(単純に見上げたならば、それだけで)生きたと書かれています。(民数記21章8-9節)

 

 ニコデモに対してイエスは「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネの福音書3章13-14節)と告げます。

 民数記21章でモーセが掲げた青銅の蛇の記事を引用して、同じように、十字架に釘付けられ、上げられたイエスを、自分の救いのためと信じるなら、永遠のいのちを持つことができると告げるのです。もちろん、イエスが実際に十字架にあげられるときは、まだ起こっていません。しかし、そのためにイエスはこの世界に来られ、そのために生きているのでした。

 

2. 解説

 

 新改訳聖書では、15節までをイエスのニコデモに対する言葉とし、16節をヨハネのナレーション(あるいは解説)として訳し出しています。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(3章16節)

 父なる神は、ひとり子のイエス・キリストをこの世に与えられました。ただ単に神の御心を表すために遣わしたというのではなく、「与え」られたのです。それは「世を愛された」からです。

 

 「世」という言葉が新約聖書で使われる時には、通常、神から離れている人々の生き方、考え方、そして現実に人々が生きている場所を指しています。

 神なんてならない、神なんて邪魔だという価値観、その現実に神は愛を示されたのです。モーセが掲げた青銅の蛇を、仰ぎなさい、そうすれば生きると語られたことを単純に信じて、行った者が蛇の毒から守られ生きたように、十字架にあげられたイエスを信じるならば、滅びることなく、永遠のいのちを持つことができると語っているのが、今月のみことばです。

 

 このヨハネの福音書は聖書の中の聖書、福音の中心とも言える個所です。旧約聖書のすべての記述も、このイエスの十字架の救いという一点に向かって描かれていると言っても過言ではないでしょう。

 御国幼稚園を卒業する年長学年の子どもたちの心にしっかりと、この福音のことばが刻み付けられてほしいと願っています。

 

 良いことをたくさんするからではなく、自分のために十字架につかれたイエスさまを、「ごめんね、ありがとう、イエスさま。」と信じるから、イエスさまの愛をいっぱい受けて生きていけること。イエスさま、ありがとう、大好きとお祈りできることを忘れないでほしいと願っています。

 

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パリサイ派(あるいはパリサイ人)という呼び名は、もともとはニックネームのように周りの人々が読んでいた呼び方でした。パリサイの意味は「分離した者」で、律法を守らない人間と自らを分離するという意味合いがあると考えられています。第二神殿時代の後期(紀元前536年 - 紀元70年)に存在したユダヤ教のグループです。第二神殿はバビロン捕囚後に再建された神殿を指していますが、最初の神殿の崩壊も、捕囚も、ユダヤ民族が神に従わなかったことによると深い悔い改めが起こり、そこからモーセの律法を守ることを厳格に求めたのがパリサイの人々でした。パリサイ派の人々は民衆の中に入っていき、そこで律法を守るように説いていたため、同じように民衆の中で語り、御業を行ったイエスと衝突する場面が聖書の中には何度も描かれているのです。

December 31, 2016

1月のみことば 新約聖書 ヨハネの福音書 14章6節 

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」

 

 3学期最初の暗唱聖句は、ヨハネの福音書14章6節になります。今月のみことばは、その一部分であり「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」という部分だけですが、後に触れるように、それはイエス・キリストを通してもたらされる「救い」という出来事と密接に関連した内容です。

 今年度は3学期全体を用いてキリスト教の最も中心に位置するイエス・キリストの十字架と復活のお話をしていきます。実にキリスト教会の歴史の中で、最初期の教会が最も大切にしていたのが「復活」という出来事でした。

 前回触れたように教会がクリスマスを祝い始めたのは4世紀に入ってからでした。しかし、イエス・キリストの復活については、教会がその産声を上げたとき以来、掲げてきた信仰の中心点であり、教会が語り告げてきた福音の中心点に他なりません。

 

1. 背景

 ヨハネの福音書の13章から17章までの部分をイエスの「告別説教」と理解することができます。十字架におけるキリストの死はもう目の前です。弟子たちと共に過ごしてきた時間も終わりに近づいています。残された最後の時間の中で、どうしても伝えておきたいことの数々。それは小学校へと子どもたちを送り出す前の残された時間の中で、子どもたちに向かって語りたいこと、もう一度呼び覚ましたい記憶・・・語り告げたい言葉がある私たちの心を主イエスの思いに重ねて感じ取ることができるかもしれません。

 13章1節では「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」と記されています。13章から17章まで続く告別説教は、そのような背景のもとに置かれています。

 14章は、ある注解者の表現を引用すると「わたし(イエス)は去るが、また戻ってくる」というタイトルをつけることができる個所です。そして、「イエスは、この世を去り行くこと、そしてまた戻ってくることを、時間をかけて語っておられる。」と説明が加えられていました。

 

2. 文脈

 14章1-4節には次のように記されています。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。

 イエスが「あなたがたも知っています」と語り告げる言葉に、弟子のひとりトマスが「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」と答えます。

 トマスは正直に「わかりません」と答えます。そのトマスの答えに対するイエスの言葉が今月のみことば、ヨハネの福音章14章6節です。

 

イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

 

 ウィリアム・バークレーという聖書学者が次のように解説しています。

 

 繰り返し、繰り返し、イエスはご自分がどこへ行こうとしているのかを弟子たちに語った。しかし、弟子たちはついに理解しなかった。「今しばらくの間、わたしはあなた方と一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになった方のみもとに行く」(7:33)とイエスは語った。イエスは遣わした父のもとに行こうとしているのであり、父とイエスは一つであると語った。しかし、弟子たちは、何がおこなわれようとしているのか理解しなかった。イエスが通ろうとしている道、その道のために十字架があるということなど、さらに理解しなかった。このとき、弟子たちは困惑し、理解できなかった。わからないものをわかったなどと決して言わない者が彼らの中に一人いた。それはトマスであった。トマスはあまりにも正直であり、あまりにも熱心であったので、あいまいな、信仰深げな表現で満足するような人間ではなかった。トマスには確信が必要だった。だからトマスは彼が疑問に思っていることと、そして自分にはどうしても理解できないのだということを語った。イエスの語られた言葉の中で最も偉大なものが疑う者によって引き出されたということは素晴らしいことである。誰も疑いを恥じる必要はない。なぜなら、求める者は最後には見いだすということは、驚くべき、そして幸いな真理だからである。

 

3. 解説

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」とイエスは語られました。それは、「父(なる神)のみもとに来る」ための道であり、真理であり、いのちと言えるでしょう。

イエス自身が「父の御許に行く」と度々語っていました。そのイエスの語られる父のもとへと私たちが行くための道は、イエスご自身なのです。イエスは道を示すだけでなく、イエス自身が道なのです。

 

 父に至る道、それは「救い」に関連しています。そして次に用いられている「真理」という言葉には、まさに人が救いを自分のものとするための真理を指示しているでしょう。そして、イエスは「いのち」であると同時に、人々のいのちの源泉と言えます。「道」「真理」「いのち」はすべて関連があり、聖書が示す救いの御業の多面性を表しているとも表現できます。

「道」は二者を繋ぐこと、それは神と人を繋ぐことを述べています。「真理」はイエスの言動やイエスの存在そのものが神とのつながりを示し、またイエス自身に全面的に信頼することができることを私たちに教えます。「いのち」は、神との関係性を表現する用語として用いられています。それは、まさに神によって造られた最初の人間が神との関わりの中で生き、神との約束を自ら破ることで神との関係を損ない死を招いた創世記の記述を思い出すならば、より理解しやすい概念ではないかと思います。神との関係を再び繋ぐ方法(道)、そのための教え(真理)、そして、回復をもたらし、共に生きるいのちは、イエスの内にあると聖書は語り告げているのです。

 イエスが真の道です。イエスが真の真理です。イエスが真のいのちなのです。そう告げる御言葉の背景を少しでも理解してほしいと願います。御国の中心にはイエスがいます。御国とは別の表現では神の国であり、天国です。天国の鍵を自分の者とする人はイエスを信じる人すべてなのです。

「ウェスレアン聖書注解 新約篇 第一巻」ウェスレアン聖書注解刊行委員会 1984年 p.431

ウィリアム・バークレイ著 柳生望訳『ヨハネ福音書 下』p.209-p.210

November 24, 2016

12月のみことば 新約聖書 ヨハネの福音書 1章9節

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」

 

1. 福音書とは何か

 

 聖書の中には、4人の福音書記者が記した『福音書』があります。インターネット上の「コトバンク」で福音書を検索してみました。そこには7件の解説が掲載されていました。

 この中で「大辞林 第三版の解説」において、「イエスの言葉とおこないを記した文書。単なる伝記ではなくイエスの死の意味を問い、その生と受難、死と復活に力点をおく。新約聖書にはマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネによる四福音書が含まれる。」という解説されていました。これは、なかなか的確な解説だと思います。

 福音書には、イエスのことば(教えられたこと)と行い(当時なされた業・行為)を記した文書ですが、それは単なる伝記ではありません。中心点は「イエスの死の意味」に置かれています。つまりイエスの死とは何だったのか、私たちにどんな関わりがあり、意味があるのかを伝えている文書なのです。

 4つ福音書の内、マルコの福音書が一番最初に書かれたという説が定説です。大体、50年代から60年代初頭ごろと考えられています。次にルカとマタイの福音書が10数年後。最後に書かれたヨハネの福音書は90年代後半から100年くらいの間に書かれたと考えられています。

西暦はキリストの降誕と密接に関係して(紀元前はB.C.=Before Christ“キリスト以前”、紀元はA.D.=Addo Domini“主の年”)位置付けられてきましたが、現代ではキリストの降誕は、紀元前4年から7年位の期間の間と考えられています。イエスの公の活動は、およそ30歳から3年半なので、最初の福音書が記されたのはキリストの死後20年以上の年月が積み重ねられていることにも注目してほしいと思います。なぜ、それよりも早い時期に書かれなかったのか。なぜ、その時期に書かれることになったのか?という視点が、福音書成立の意味に関わっているからです。

 

2. ヨハネの福音書におけるキリストの降誕

 

 最初に書かれたマルコの福音書では、降誕の出来事は大段に省かれています。クリスマスの出来事を伝えるのは、ルカとマタイが書いた福音書のみです。

 ヨハネは、神が地上に与えてくださったメシヤ(救い主=キリスト)であるイエスを「光」として描き出しています。クリスマスの物語では、地上にくだってきた光としての救い主の存在が輝いています。  

教会がクリスマスを祝い始めたのは、4世紀に入ってからでした。(ローマで12月25日にキリストの降誕を祝い始め、それがより広い地域の教会へと広がり定着したのは6世紀に入ってからでした。)教会がクリスマスを祝い始めた最初期から、光の主題は掲げられてきました。この世に到来し、闇を駆逐した光の比喩をもって、キリストがこの地上に人として来られた出来事を理解し、解釈たのでした。

クリスマスというシーズンは今でも光にあふれていますが、クリスマスのオーナメントやクリスマスの飾りで用いられるろうそくにも、救い主イエスこそ世の光として闇に光をもたらしたことを表現しています。

 

 

3. みことばの解説

 

1: 4この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

1: 5光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

1: 6神から遣わされたヨハネという人が現われた。

1: 7この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。

1: 8彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。

1: 9すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

1:11この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

1:12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

1:13この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

1:14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 

すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(ヨハネの福音書1章9節)

 

 もともとギリシャ語で書かれたヨハネの福音書を日本語に翻訳する際、ヨハネが選んだ「アレーティス」ということばを、新改訳聖書では「まことの」と訳しました。この言葉が持っている意味は、「虚構」の反対で、真実な、真正なという意味があります。

 つまり、ヨハネがここで告げているのは、イエスこそが、人々を照らし導くために来られた真正な光なのだということです。

 虚構(英語ではfictipn)という言葉には、事実ではないことを事実らしくつくりあげるという意味がありますが、嘘や偽りに対する本当という意味よりも「本物」に近いニュアンスの表現が使われているでしょう。

 それは、真っ暗な夜に日が登り世界が明るく輝くように、夜を照らすろうそくの灯やオイルランプの揺らめく炎も光には違いないでしょうが、それは一時的であり、限られたものに過ぎず、夜明けとともに訪れる昼の明るさには、少しも比較ができないほどの圧倒的な光と温かさをもたらす光に例えることができるかもしれません。

 イエス・キリストの到来は、私たちの生きる現実の中で経験す闇に対して、一時的な光や限定的な光の存在はあったとしても、私たちの人生を照らし導く、本当の光はイエスなのだとヨハネが語っているのが今月のみことばです。

 父なる神の約束を長い間待ち望み続けてきたイスラエルの民が、今、その約束の実現を、救い主の到来を経験しようとしているのです。(もちろん、表現としてはこれから起こる出来事として記されていますが、ヨハネの福音書の読者にとっても、現代の読者にとっても過去の出来事なのは確認するまでもないことでしょう。)ヨハネはこの約束の救い主の到来を語り告げ、そしてその生涯を通して示された救いを指し示しています。

October 31, 2016

11月のみことば 旧約聖書 サムエル記第一 16章7節

「人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

 

1. 背景(サムエル記第一)

 イスラエル初代の王に選ばれたサウルは、最初は神さまを求め、神さまに仕える王でしたが、次第に神さまとの関係は薄れていき、神に仕える心を失っていきました。

 サムエル記第一13章では、王であるサウルが行うことは許されていない、全焼のいけにえと和解のいけにえをサウル自らの手でが捧げます。この行為は神さまの御心を損ないました。「主が命じられたことを守らなかったからだ。」(13:14)と告げられています。

 また15章では、神はアマレク人との戦いにおいてイスラエルの勝利を約束されていましたが、この戦いにおいて略奪品を取らないように明確に指示されていました。しかし、上質の牛や羊といった家畜を滅ぼすことを惜しみ、分捕り物として持ち帰りました。ここでも「主の御声に聞き従わず」(15:19)と告げられているように、神さまの命令を軽んじて重く受け止めないという姿勢が露わになっています。

 サウルの人生をたどると、だんだんと神との関係が薄らいでいくことに気が付かされます。サウルが一番気にしたのは神の命令ではなく、人の目であり、人の評判でした。いけにえを捧げたときも、戦利品を持ち帰ったときも、神の命令よりも人の目を優先させているサウルの姿が描かれています。

 事の本質は、「誰が本当の王か」という点です。サウルは確かにイスラエルの王でしたが、サムエルが「あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに」(サムエル記第一12:12)と民に語り告げたように、イスラエルの民にとっても、サウルにとっても本当の王は主であり、主に聞き従い、主に仕えることこそ最優先されるべきでした。

 しかし、神が喜ばれることを求めるのではなく、人が喜ぶことを優先させた結果、サウル自身の心が神から離れ、結果として、サウルの王としての歩みに不適格の烙印を押されることに繋がったと言えるでしょう。

 

 主なる神は、サウルにかわる王をイスラエルの中に見いだしました。それが少年ダビデでした。王として一番大切なことは、主なる神を求め、主なる神を愛する心を持っているということでしょう。

 

2. 文脈(サムエル記第一16章より)

 主はサムエルに、「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。」(16:1)と語りかけられます。

 しかし、新しい王に油を注ぎに出かけるとは、サウルには口が裂けても言えません。恐れるサムエルに主は、「主にいけにえをささげに行く」と言ってベツレヘムに出かけ、その場にエッサイと子どもたちを招くようにと告げられます。

 

 サムエルが初めてエッサイの長男エリアブを見たときに、その背の高さや容貌から「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」(16:3)と思います。しかし主はサムエルに「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(16:7)と語りかけられます。次男アビナダブも三男シャマも、続く4人の子どもたち誰をも主は選んでおられませんでした。その場に来ていたエッサイの子どもの中には主の選ばれている人はいませんでした。

 

 そこで「子どもたちはこれで全部ですか。」とサムエルはエッサイに尋ねます。エッサイは「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」と答えます。大事な場所に同席することも求められないほどエッサイに軽んじられていた末息子でしょう。

 サムエルはダビデをこの場所に連れてくるように求めます。連れてこられた末息子のダビデは、「色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。」と告げられています。そして主は「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」(16:12)とサムエルに告げられたのです。

 

3. みことばの解説

 主がエッサイの息子たちの中に、新しい王を見つけたと言われて、サムエルが初めて長男のエリアブを見たときに、その容貌や背の高さから、確かに王に相応しいと心のうちに思いました。

 しかし、主はエリアブがどんなに背が高く、体格もよく、容姿が美しかったとしても、エリアブを選んではいないと答えられます。人はうわべを見るけれども、主は心を見るのだと告げられるのでした。

 心は目には見えません。しかし、心にあるものが言葉や考え方や行いとして外に出てくるものでしょう。福音書記のルカは「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」(ルカの福音書6:45)と語られるイエスの言葉を記しています。

 外に出てくるものを意識的にコントロールすることで心の内を隠しておくこともある程度はできるかもしれません。しかし、主は心のうちまでもご覧になっておられる方です。詩篇の記者は「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。 ・・・私の思いを遠くから読み取られます。 ・・・ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。」(詩篇139:1-4)と歌いました。

 

 サウルの何が間違っていたのでしょか。将来性にあふれ、非常に良いスタートを切った人が、どうして間違った方向に行ってしまったのでしょうか。・・・彼の後継者であったダビデは、サウルよりはるかに重い罪を犯しながら、サウルほどに堕落していくことはありませんでした。ダビデはバテシェバと姦淫を犯し、彼女の夫のウリヤを殺し、姦淫と殺人の両方の罪を覆い隠しました。これらのすべては、彼がイスラエルの王であった間の出来事でした。それにもかかわらず、ダビデは王国を失いませんでした。事実、彼は王であり続け、長寿を全うしました。対照的に、サウルの悪行は民に害を及ぼすものではありませんでした。彼がしたことは、彼がしてはならないいけにえをささげたことであり、取っておいてはならない羊や牛をとっておいたことでした。誰も殺さず、誰をも傷つけず、誰の物をも盗みませんでした。それなのに、なぜ彼の罪はより重いものとみなされ、より厳しい扱いを受けなければならなかったのでしょうか。・・・サウルの罪は、本質的に高ぶりの罪でした。神の命令に背くことになっても、彼は人から良く思われたかったのです。

高ぶりの罪は、すべての罪の中で最悪です。・・・神が赦されないというよりも、高ぶっている人は自分の罪を認めようとしないからです。追い詰められると「私は罪を犯しました。」というかもしれませんが、本当は「見つかってしまった。」という意味です。罪を悔いているのではなく、見つかったことを悔いているだけなのです。

ダビデは神の裁きを余すところなく受け入れて、本当の悔い改めがどのようなものかを示しています。「私は主に対して罪を犯した」(サムエル記第二12:13)と言って、それ以上言葉を付け足しませんでした。対照的にサウルは、「私は罪を犯しました」と言い、さらに加えて「しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。」(サムエル記第一15:30)と言いました。サウルは神の栄誉を傷つけても、自分が得た栄誉を守ろうとして第一の任務を裏切ったのです。私たちが悔い改めるならば、どんな罪でも赦されることが可能になりますが、もし悔い改めることをしないならば、どんな罪も赦されません。*1

 サウルが退けられた最大の理由は、神を神としない心(聖書はこれを罪と言います。)を認めることができなかったことにあります。ダビデが持っていた心は、この神を神とする心であり、神が見られた心は、このような心だったのです。

*1 デイビッド・W・F・ワング著 小山大三訳『最後まで走り抜け』岐阜純福音出版 2008年 p.46f

September 30, 2016

10月のみことば 旧約聖書 サムエル記第一 3章9節

「主よ。お話しください。しもべは聞いております」

 

1. 背景(サムエル記第一 1-2章より)

 サムエルの誕生は、母ハンナの祈りに対する主の答えでした。夫エルカナとの間に子どもができず、そのことがハンナの心の痛みであり、悲しみを抱えて生きていました。(サムエル第一1:1-10)

 悲しみの中、ハンナは主の御前で心を注ぎだして「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」(1:11)と祈りました。「主は彼女を心に留められ」(1:19)、ハンナはひとりの男の子を出産します。「『私がこの子を主に願ったから』と言って、その名をサムエルと呼んだ。」(1:20)と記されています。

 サムエルが乳離れするまでハンナは自分の手で愛情を注いで育て、乳離れすると幼いサムエルを主に仕える者として、主に捧げ、祭司エリに委ねます。

 幼子は祭司エリのもとで主に仕えながら成長して行きます。聖書は「主のみもとで成長した。」(2:21)と、少年サムエルの姿を描き、「少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された。」(2:26)と告げます。それはイエスの少年期の記述(ルカの福音書2:52「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」)と同じように、神の恵みの御手のもとで成長しているサムエルの姿を表現しています。サムエルもまた、主のために特別な役割を委ねられ、イスラエルの歴史の大きな変化の時代を導くリーダーとして用いられていくのでした。

 

 イスラエルの歴史を振り返ると、アブラハムの子孫がエジプトの地において一つの大きな国民となるまでに成長しました。主によってモーセがリーダーとして立てられ、エジプトから約束の地カナンに向けて旅を始めます。40年にも及ぶ荒野の旅を経て、モーセの後継者として立てられたヨシュアをリーダーとして、カナンを嗣業の地として取得していきます。ヨシュアという指導者を失った後、イスラエル民族は、他国が王制を敷く中、主なる神を王とし、「士師」と呼ばれる「さばきつかさ」が、国を治める国として歩みます。(・・・創世記から士師記までの概略です。)

 

 士師記の中には、主に従う時には祝福が、主を忘れ自分勝手に生きるときには、外敵による圧迫や問題の中で苦しむ姿が描かれています。しかし、自らの「神を神としない生き方」を省みることなく、問題が起こっているのは、他国のように王制を取らないからだと、神を退け、王を求めるイスラエルの姿がサムエル記では描かれます。

 イスラエルの歴史において、サムエルは最後の士師(さばきつかさ)であり、同時に最初の預言者でした。サムエルは主の語りかけを聞きながら、民の求めによって主が立てた最初の王サウルに、また、ダビデ王に任職の油を注ぎ、その時代の変化を導くのでした。

 

2. 文脈(サムエル記第一 3章)

 サムエル記第一3章1節には「少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」と記されています。

 その夜、サムエルは主の宮で寝ていました。「そのとき、主はサムエルを呼ばれた。」(3:4)と、まれにしか起こらずにいたことが、その夜起こりました。しかし、サムエルには自分を呼ばれた方が主だとわかりませんでした。急いでエリのもとへ走って行き「はい。ここにおります。私をお呼びになったので」(3:5)と言います。もちろん、エリはサムエルを呼んでいません。「私は呼ばない。帰って、おやすみ」と答えます。サムエルは戻って眠ります。すると再び主がサムエルを呼ばれます。サムエルはもう一度エリのもとへ走り行きます。エリはもう一度同じように答え、サムエルは戻って行きます。

 主はまたもやサムエルを呼ばれます。サムエルは同じように起きてエリのもとへ走ってゆきます。3回繰り返された時に、エリがやっと主がサムエルを呼ばれていることに気が付きます。そしてサムエルに「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『主よ。お話しください。しもべは聞いております』と申し上げなさい。」(3:9)とアドバイスをするのでした。その後、サムエルは主の宮に戻り横になります。

 時が満ち、準備が整ました。「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、『サムエル。サムエル』と呼ばれた。サムエルは、『お話しください。しもべは聞いております』と申し上げた。」(3:10)と聖書は記しています。この後、主はサムエルにエリの家に対するさばきについて語られました。

 

3. みことばの解説

 10月の聖書のみことばは、サムエル記第一3章からの一節です。今月は「祭司エリ」が「少年サムエル」に告げた「主よ。お話しください。しもべは聞いております」という部分だけを取り上げています。

 士師の時代には、神に対する信仰は、凋落の一途でした。「主のことばはまれにしかなく」(3:1)は、主の語りかけにまっすぐに耳を傾ける人々がほとんどいなかったことを示しているようにも思います。それは、特別に語りかけたい事がなかったからではなく、聞く耳を持つ存在が少ないということでしょう。

 しかし、サムエルは母ハンナの祈りにも見られるように、主に信頼するハンナの信仰によって、生まれる前から祈られ、神の御前に生きることを大切にしながら成長した特別な役割をゆだねられた存在でしょう。特に最初の預言者として神に仕えるサムエルが、神のことばを語られたとおりに語り告げるためには、聞くこと、そして、その聞いたことをきちんと心に納めて、語られたことを信じて語り告げることが大切だったでしょう。サムエルは聞く耳を持つ存在として描かれているのです。

 

 聖書を読むときに、「聞く」ということがとても大切にされていることに気が付きます。もちろんその大前提として「語り手」が存在し、そこに「語られる内容(メッセージ)」が存在しています。

 今も主なる神さまは、「聖書」という書き記された「神さまのことば」を通して語られます。私たちの人生を導き、人生を豊かにし、正しく生きる道を示されます。

聖書が私たちに求める聞き方は、ただ単に聞くだけではなく、その語られた言葉に従う事、応答することを含んでいるのです。

 

 主はサムエルに話しかけられました。サムエルは「はい、ここにおります。」(3:4,5,6,8)と答えました。原文を直訳すると「ご覧ください私を」と訳すことができる表現が使われています。

 「呼ばれる」こと「答えること」。「お話しください。しもべは聞いています。」と聞く準備、聞く姿勢ができているうえで、「求める」サムエルに応えるように「語られる」主の姿が描かれます。

 そこには一方から他方への、一方的なものではなく、双方向のコミュニケーションがあります。聞くことも語ることも相手があって成り立つことでしょう。そこにある「向かい合う姿」をイメージを思い浮かべてみてほしいと思います。

 

 日常の中ではあまり意識しないかもしれませんが、「聞く」こと「語る」ことは、単なる情報の伝達ではなく、心と心を通い合わせる人格的な交流であることを忘れないでください。神と人間の間にあっても、人と人の間にあっても。(そうです先生同士であっても、先生と園児との間にあっても、)心と心を通い合わせる「語り方」と「聞き方」が意識されることを願っています。

 目の前の先生と園児たちの交流が、目に見えない神さまと子どもたちの関係性を育んで行く助けとなることを忘れないでほしいと思います。

August 31, 2016

9月のみことば 新約聖書 マタイの福音書 14章27節

 

しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

 

 9月の聖書のみことばはマタイの福音書14章からの一節です。

夏休み明けの聖書のお話では「イエスと弟子たち」という新しい単元を取り扱い、特にペテロにフォーカスして3週に渡ってお話をする予定です。

 マタイの福音書14章は、「バプテスマのヨハネの処刑」の記事から5つのパンと2匹の魚による「5000人の給食」の記事が続きます。14章22節以下の個所では、夕暮れを目の前にしてイエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、湖の向こう岸へと先に送り出しました。その間にイエスは群衆を解散させて、ただ一人山に登り、祈りに専念していました。

 一方、弟子たちは舟で向こう岸へと向かって、陸地から何キロも離れていましたが、向かい風と波に悩まされ、日が暮れる前には出発したにもかかわらず、夜中の3時ごろになってもまだ湖の上を漂っていました。ガリラヤ湖の大きさは、長さ21キロ、幅12キロですから、舟は湖の真ん中近くを漂っていたことになります。

 かつて漁師として、湖の上で舟を自由に操って魚を取っていた何人もの弟子たちが舟に同船していましたが、そのような彼らであっても波に翻弄され思うように目的地に進んでいけない状況を福音書記者のマタイは描き出しています。

 この個所では、弟子たちを強いて(あるいは無理に)舟に乗せて送り出したイエスがいます。そこには意図があって湖の上に弟子たちを送り出したイエスがるでしょう。例えば、弟子たちはもっとゆっくり座っていたいと別の考えも持ってたとしても、無理にでも船に乗り込ませて、その場から送り出すイエスの姿をマタイは描き出しています。

 同時にこの状況下、心を注ぎだして(弟子たちのためにも)祈られるイエスの姿が描かれています。

 昨年、幼稚園の聖書のお話で取り扱ったことがありますが、マタイは先立つ8章22-27節において、弟子たちがガリラヤ湖上で大暴風に遭遇し、舟が沈みそうになった出来事を描いています。この時はイエスも同船していましたが、荒れ狂う波に翻弄される船の中でぐっすりと眠っていました。「主よ。助けてください!私たちは溺れそうです!」との弟子たちの叫びに目を覚まし、起き上がって風と湖を叱りつけ静められた出来事を記しています。

 この光景を目の当たりにした弟子たちは「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」(8章27節)と驚きを表しています。マタイはこの出来事を通してイエスの神性を表していました。

 

 マタイは同じ湖の上で遭遇した出来事に、風と波を静められたイエスの姿を思い起こすことを期待しているように思います。もちろんここではイエスは同船されていませんが、弟子たちの心を(そして、読者である私たちの心をも)イエスに向けさることを意図しているでしょう。

 

 マタイは今月の聖書個所(マタイの福音書14章)では、夜中の3時ごろに湖の上を歩いて湖上の弟子たちのもとに進みゆかれるイエスを記します。しかし弟子たちはイエスだとは気づかず、舟に近づかれるイエスを「幽霊だ!」と恐ろしさのあまり叫び声をあげています。

 それは単に幽霊が怖かったというのではなく、自分たちのいのちの終わりを覚悟した瞬間だったようです。そのときイエスは語りかけられました。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない

 

 ここで「わたしだ」と訳されている部分にギリシャ語の原文では「エゴー・エイミー」という表現が使われています。直訳すれば「わたし、私自身だ」というように二重に重ねられた、通常の会話では使われない表現が使われています。

 それは旧約聖書の出エジプト記において、モーセが自分に現れてくださった神に名前を問いかけたときに、主なる神が「わたしは、『わたしはある』という者である。」(出エジプト記3章14節)と答えられた表現と同じ表現が使われています。つまりイエスが「わたし」だと言われているのは「幽霊ではなく、自分だ、イエスだ」と示しているのではなく、神の子イエスが共にいることを示していると言えるでしょう。

 イエスが共にいるから恐れる必要はない。恐れることはもうやめなさいと語られるイエスがいるのです。

 

 ウィリアム・バークレーは聖書の解説の中で次のように記していました。

 

 波はさかまき、弟子たちが苦闘していたときに、イエスの助けがあった。困ったときただちに、イエスの助けと救いの手がさしのべられた。人生にも逆風が吹く。あるときは困難が行く手をふさぎ、またあるときは、自分自身との戦いや、境遇、誘惑、悲哀、決断の苦悩が身に迫る。しかしこのときにも、我々は孤独で苦闘するのではない。なぜなら、イエスは人生の嵐の中を両手を広げて近づかれ、静かな、澄んだ声で、「恐れるな。勇気を出しなさい」と言われるからである。

(ウィリアム・バークレー著 松村あき子訳 『マタイの福音書<下>』 ヨルダン社 1968年 p.118-P.119)

 「わたしだ。」と語られる方が誰なのかが鍵なのです。

マタイは、この湖の上での出来事の最後を弟子たちの「確かにあなたは神の子です」(マタイの福音書14章33節)という言葉で結んでいます。

 かつて大暴風の出来事の時は「いったいこの方はどういう方なのだろう」と言っていた弟子たちのイエス理解が大きく変わっています。そして、イエスご自身が弟子たちに教えたかったこともイエスが神の御子であるということでした。(船で強いて送り出した意図は、ここにも見られるでしょう。)

 神の子イエスが共におられる。神の子イエスが安心しなさいと言われる。神の子イエスが御手を差し伸べ助けてくださる。だから人生を委ねて安心して良いのです。

July 31, 2016

8月のみことば 旧約聖書 詩篇19篇1節

 

天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。

 

 8月のみことばは詩篇の19篇からの一節です。詩人は「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」と歌いつつ、その目をこの天地万物を造られた神さまに向けています。

 

 天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。(詩篇19篇1-3篇)

 

 詩人は、空を見上げ、空に瞬く満天の星たちに天からの無言の語りかけを聞き取っています。神の御手の創造の御業の素晴らしさに、神の栄光を見るのでした。また、詩篇8篇の中では、

 

 あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。(詩篇8編3-4節)

 

 と歌われていますが、ここでも夜空に輝く月や星を見上げて神さまが造られ、守られている世界に心を向けています。

 

 新約聖書の中では、使徒パウロがローマのクリスチャンたちに宛てた手紙の中で「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ人への手紙1章20節)と告げている個所を見つけます。

 

 聖書は、私たちが目にする世界を、天も地も、その中にあるすべてのものも神の御手の業、指のわざだと告げています。これらの個所は、大空を見上げその素晴らしさに心を留めるときに、この世界を造られた神の存在に気が付かされることを指し示しています。

 それは今も同じで、自然を見つめて神の存在を思う人々や新しい命の出産を通して神を覚える人たちの証言をたびたび耳にします。

 

 詩篇19篇2節の「昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。」という個所も、夜になって世界が暗闇に包まれても、翌日にはまた光で満たされた朝が訪れることに畏敬の念を覚えている詩人の心が表現されています。

 

 8月のみことばは、夏休みの間、自然に触れる機会が増える子どもたちに、ぜひ覚えてほしいと願って選びました。素晴らしい自然の中で、神さまの創造の御業を覚えて「神さまの御業はすごいね。神さまが造ってくれた世界は美しいね」と感謝や神さまの栄光をたたえる思いを大切にしてほしいと思います。

 

 19篇の詩人は、言葉にならない無言の語りかけと同時に、7節以降で「主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。」と告白しています。

 それは、聖書の中に記されている「ことば」を示しています。自然を通して神の存在を感じると同時に、聖書の御言葉によってこの世界を神さまが造られたと告げ知らせていることばによって、私たちはもっと具体的に神さまの存在を知る事ができるのです。

June 30, 2016

7月のみことば 新約聖書 ピリピ人への手紙 4章13節

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。

 

 今月の御言葉は、使徒パウロがピリピのクリスチャンたちに向けて送った手紙の一部分です。今月はまず、この手紙の背景を少し説明してみたいと思います。

 手紙の差出人は使徒パウロ。

 手紙の受け取り手はピリピのクリスチャンたちです。

 

 手紙ですから伝えたい事や理由があって書かれていますが、手紙が書かれた直接のきっかけは、ピリピの教会からの献金を受け取ったパウロが感謝の意を表すためでした。(ピリピ人への手紙4章10-18節参照)

 

 手紙が書かれた時期は61年ごろで、パウロはローマにおいて囚人として強制的に拘留されていました。

 一方、ピリピの教会の始まりについては、新約聖書の使徒の働き16章11-40節に記されていますが、紫布商人のルデヤとその家族が救われ、ピリピの看守とその家族が救われました。その後も教会は成長し続けました。

 パウロが最初にピリピの地を訪れたのは、第二回伝道旅行(50-52年)の時でした。手紙の背景にはこうした10年ほどの間に培われたパウロとピリピの教会との間の親密な関係があります。

 

 ピリピ人への手紙は、「喜びの手紙」と呼ばれるほどに、喜びにあふれています。パウロは繰り返し「喜びなさい」と書き送っています。しかし、この「ピリピ人への手紙」は、「エペソ人への手紙」、「コロサイ人への手紙」、「ピレモンへの手紙」と共に「獄中書簡」と呼ばれています。先に触れたように強制的に囚人として獄に捕らわれているパウロが書き送った手紙なのです。(その中でパウロは喜びを失っていないばかりか、ますます喜んでいます。)

 

 この手紙の一節(4章13節)にパウロが確信をもって告げる「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」という言葉が記されています。

 全4章の短い手紙ですから、ぜひ全体を通読してほしいと思いますが、結びに向けて「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(4章4節)と語りかけています。5月にも触れましたがここでも「主にあって」という言葉がキーワードになっています。

 

 キリストと無関係の喜びではなく、キリストにある喜びです。キリストが共にいてくださる。キリストが守ってくださる。キリストが(私の心の思いを)理解してくださるとパウロは告げます。

 

私は(パウロ)は、私を強くしてくださる方(主なる神さま)によって、どんなことでもできるのです。

 神さまは勇気をくださいます。神さまは力をくださいます。一緒にいて助け、守ってくださいます。エステルが勇気をもって王のもとへ進んでいったように、勇気と助けをくださるのです。

 

 年長児は、夏休み前に宿泊キャンプという大きな経験を控えています。初めてのお泊りという子どもたちもいるでしょう。寂しさや不安を抱える子どもたちもいるでしょう。

 でもイエスさまが一緒にいてくださる。イエスさまが支えてくださる。イエスさまが勇気をくださる。力をくださる。だから大丈夫。家族を離れてのお泊りを僕たち私たちは元気に楽しめる!ぜひ御言葉が子どもたちの心に残り支えとなるように語りかけてあげてください。

May 31, 2016

6月のみことば 新約聖書 ルカの福音書 19章10節

人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。

 

 6月の御言葉はルカの福音書19章10節のみことばです。ルカが記すザアカイの物語の一部分です。

 当時のユダヤ人にとって何よりも抵抗があったのは、ローマの支配下にあって自国が独立状態にない事でした。イエス・キリストが働きを展開した時代の空気感は、このローマからの解放をもたらす政治的リーダーの到来を求める機運の高まりでした。

 取税人が罪人として取り扱われていた背景には、このローマの手先となってユダヤ民族に徴税の仕事を行っていたことも大きな理由でした。加えてローマから徴税業務を請け負うためには入札で最も高い金額を提示することが必要で、さらにローマはこの業務に対しての対価を賃金として支払うことなく、請け負った取税人たちが徴税業務の中で上乗せして集めざるを得ないという背景があったと言われています。

 とはいえ、徴税額に上乗せして自分の懐を潤すことができるこの仕事は、お金を儲けたいと思う人々が、蔑まれ疎まれていることを百も承知で自ら進んで選ぶ仕事であったわけです。

 

19: 7これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた。

 

 ルカはイエスがザアカイの家に宿を取られたことを、人々がぶつぶつと不満を表して歩き回っていた様子を告げています。確かにそういわれても仕方のない背景があったのは事実でしょう。

 

19: 8ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。

 

 ザアカイはイエスとの出会いで、それまでの生き方に別れを告げ、神さまの子どもとして生きることを願います。どうすれば神さまのもとに帰れるのかわからないザアカイに道を示したのがイエスご自身なのです。

 

19: 9イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

19:10人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 

  バプテスマのヨハネが、民衆に語り告げた言葉を思い出してほしいと思います。

 

まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。 それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」(ルカ3章7-8節)

 

 旧約聖書の創世記に登場するアブラハムはイスラエル民族の先祖として紹介されています。アブラハムを通して、神さまの救いの計画が全世界に示されることを神さまは選ばれました。

 アブラハムからイザク、イサクからヤコブ、ヤコブから12部族へと広がり、エジプトの地で大きな国民へと増え広がって行きます。

 そして出エジプトを経てパレスチナにおいて国を建てます。イスラエル民族は神に選ばれた民族であり、神の祝福を世界にもたらすパイプの役割を委ねられていました。

 ですからアブラハムの子どもたちということは、ユダヤ人たちに特別な意味がありました。神の救いの御業、御国の約束、神の子どもとしての生き方は、神がアブラハムと結ばれた契約の継承に関わるものとして、平たく言えば、天国に入る切符はアブラハムの子孫であることで約束されているという理解でした。

 バプテスマのヨハネは、この当時の人々の理解に真っ向からメスを入れ、神のもとに立ち返るために、自分の心の向きを変え、悔い改めることを求めたのです。

 

 イエスはザアカイを「アブラハムの子」と言われたのは、確かにイスラエル民族の中に生まれ育ったザアカイでもあり、祝福の継承を望まれていたにもかかわらず、神から離れ、失われていたアブラハムの子だったからでしょう。(それはザアカイに限らず、すべての人が同じなのですが….。)

 

 ルカがルカの福音書15章において、ザアカイの物語に先立って記す「失われた羊」、「失われた銀貨」、「失われた息子(放蕩息子)」という3つのたとえが示すように、失われたものを熱心に探し出す神の熱情が、ザアカイにも表されているのです。

 たとえ話の上での単なる教えということではなく、実際に失われたものを捜し求め、神の御もとに立ち返らせるイエスの働きが行動として現わされているのがザアカイの物語でしょう。

 

 今月の聖書の御言葉は、神さまのもとから離れてしまった人間を神のもとへと立ち返らせることをどれほど願い、そのためにこそこの地上を歩まれたイエスの思いを表している御言葉です。

April 30, 2016

5月のみことば 新約聖書 テサロニケ第一5章18節

 

すべての事について、感謝しなさい。

 

 5月の御言葉はテサロニケ人への手紙第一5章18節のみことばです。16-18節までを引用してみたいと思います。

 

5:16いつも喜んでいなさい。

5:17絶えず祈りなさい。

5:18すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 

 いつも喜び・絶えず祈り・すべての事を感謝することは、神さまが私たちに望んでおられることなのですとパウロはテサロニケのクリスチャンたちに向けて書き送りました。「望んでおられることです」という部分は、聖書の原文を見ると「御心です」とも訳すことができる言葉です。私たちが「喜び・祈り・感謝」の生活をすることを神さまが喜ばれ、そのように生きてほしいと心から願っておられるということでしょう。

 

 そのように生きるための鍵が「キリスト・イエスにあって」と告げられていることばでしょう。「キリスト・イエスにあって」 という表現も原文では、「~の中にある」 という状態を表す前置詞の「エン」 が使用されています。英語の聖書NIVでは”(for this is God’s will for you) in Christ Jesus.”と訳されているように、ギリシャ語の前置詞「エン」 は、英語の「in(あるいは"inside" や"within")」 というニュアンスを持つ前置詞なのです。

 英語の”in Christ”という表現と「キリストにあって」という日本語の表現とでは、皆さんにとってはどちらの方がイメージしやすいでしょうか?

 

 感謝することは大切です。しかし、キリスト抜きの感謝ではなく、キリストと一緒の喜びであり、キリストと共に祈ることであり、キリストと一緒にある感謝がこの文脈の背景なのです。

 

 同じものを見ても、同じことを経験しても、イエスさまが一緒にいてくださるなら「悲しい」だけで終わらずに「うれしい」と思えることが見つけられることがあるでしょう。ただ通り過ぎるだけの時間ではなく、積み重なる時間の蓄積の中に「神さまの愛が見つかる」そういう経験をすることがあるでしょう。

 イエスさまが一緒にいてくださることで私たちの見方や受け止め方が変わるだけでなく、神さまはプロバイダー(provider:供給者)としていのちを、愛を、希望を、力を注いでくださるのです。

 新共同訳聖書は、たびたび神さまを「源」として訳し出しています。神さまは源であって、私たちに供給してくださるというニュアンスです。そしてこの「源の神さま」とつながる鍵はイエスさまなのです。

 

 「キリスト・イエスにあって」とパウロが語る意図は、自分たちの努力や意思によってということではなく、イエス・キリストを通して、そのように生きることができるように助けていただくことができる。そのためのすべてを神は備え、イエス・キリストを通して与えてくださるということでしょう。

March 31, 2016

4月のみことば 旧約聖書 創世記1章1節

 

初めに、神が天と地を創造した。

 2016年度最初の聖書のみことばは、創世記1章1節から「初めに、神が天と地を創造した。」という個所です。

 

 「天」と「地」という二つの相反する言葉をつなぎ合わせて「すべてのもの」を表す修辞法がここでは使われていると言われます。「天」と「地」だけでなく、「天にあるものも地にあるものもすべて」という意味で使われているという理解です。

 聖書は、この最初の一節において、「神がおられること」、この神が天にあるものも、地にあるものも「(その)すべてを造られた」ことを語り告げています。

 「創造した」と日本語に訳されていることばは、「バーラー」というヘブル語の動詞ですが、旧約聖書では54回使われています。そして54回中6例を除いては、主語に神が用いられている行為を表しています。若干の例外はありますが、神の働きを表すために用いられている動詞がこの「バーラー」と言えます。

 

 旧約聖書のイザヤ書43章7節には「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」という御言葉が記されています。

 

 ここでも、「創造し」と日本語に訳されている部分に「バーラー」が使われています。興味深いことに、この個所では「創造し」(バーラー)の他に、「形造り」(ヤーツァル)、「造った」(アーサー)と3つの違うことばで造ることを表現しています。「ヤーツァル」と「アーサー」は必ずしも主語が神とは限りません。特に「アーサー」は、何かを造ったり、仕立てたり、完成させたりと、何かを造ることを表現するときに用いる単語です。

こうしてみると、創世記1章1節の御言葉では、意識的に、意図的に「バーラー」という単語を用いていると言えるのでしょう。

 

 私たちの目に映るもの、青々とした緑の葉っぱも、きれいに咲き誇っている小さな花も、青く広がる大空も、ぽっかりと浮かんで風に流れる真っ白い雲も、私たちの日常の生活の中で、私たちを取り囲むすべてを「造られた神さまがおられる」という視点は、私たちの人生にどんなに豊かな感謝を生み出すでしょう。4月、御国幼稚園に入園して初めて御言葉を耳にする子どもたちが経験する新鮮な視点を教師の皆さんにも一緒に経験してほしいと思うのです。

 

 目に映るすべてのもの。それだけでなく、それを見つめて「きれいだな」「うれしいな」と思える「私という存在もまた神さまが造ってくださり、今ここに存在している」という感謝があふれることを願っています。

 誰一人同じ存在はいません。一人一人が特別な存在、すばらしい存在です。だからこそ、かけがえのない(どこにも代わりの存在しない)唯一の存在なのです。

 こんなに素晴らしく特別に造ってくださった神さまに、お互いに(教師も子どもたちも一緒に)うれしいね、ありがとうだねという言葉と気持ちがあふれる4月となりますように。

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