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March 12, 2017

03/13(月)~03/15(水) 「エマオに向かう道で」

お話の解説

聖書:ルカの福音書24章13-35節

主題:イエスは復活を信じる信仰へと弟子たちを導かれた

目標:イエスさまは復活を信じることができるように導かれる

 

 イエスこそ自分たちを助けてくれると、信じ期待していた弟子たちにとって、イエスの死は夢破れ失望のどん底に落とされるような出来事でもありました。

 エルサレムからエマオへと向かう二人の弟子は、イエスの十字架の死と女性たちが告げた「からっぽの墓」の出来事と、み使いが「ここにはおられません、よみがえられたのです。」と告げた言葉、そして、本当にからっぽで、なくなってしまったイエスのからだのことを話し合ったり、論じ合ったりしながら、目的地に向かって進んでいきました。

 

 そこにひとりの人が一緒に道を歩き始めます。ルカは、この人物の登場を「話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」(ルカの福音24章15-16節)と描いています。

 

 復活のイエス自身が、絶望の中にいる信じられない二人の弟子に近づかれた。しかし、不思議なことに二人にはイエスだとわからなかったというのです。

 

 イエスは道々、旧約聖書に預言されているキリスト(救い主)について、旧約聖書全体から解き明かされました。やがて二人の目的地にたどり着きましたが、途中から旅に伴われた同伴者は、まだまだ先へと進ん行きそうな様子でした。

 二人は「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と無理に願いました。(同24章29節)

 同伴者はこの熱心な求めに応じて彼らと一緒に泊るために中に入られました。続きをルカは次のように記しています。

 

 

彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(30-32節)

 

 パンを裂かれたことは最後の晩餐を思い出させます。そこではパンは、十字架で裂かれるキリストの体を示していました。道々、話を聞きながら心が燃えるように感じていた。なぜだろう、どうしてだろう?そのときは理由がわからなかった。消えてしまいそうな心のともしびが、もう一度赤々と燃えあがってくるのを感じていた。

 でも、それはイエスさまが一緒にいてくれたから、イエスさまが教えてくれていたから、何よりも信じられなかった復活という出来事を、信じられるように導かれた、その真実に心が動かされたということでしょう。

 

 繰り返し述べてきたように、十字架は復活の光で照らされて、本当の意味を見いだすことができます。そこに人生を本当に根本から変えるような力が隠されているのです。

 一年間の聖書のおはなしのクライマックス、あるいは総まとめがここにあります。子どもたちの心にいつも一緒にいてくださるイエスさまのことが残るように願っています。

March 05, 2017

03/06(月)~03/09(木) 「復活の主」

お話の解説

聖書:ヨハネの福音書20章1-18節

主題:イエスは復活によって救いを成し遂げられた

目標:イエスさまの復活を喜ぶ

 

 イエス・キリストの復活は、キリスト教信仰の中心にある、核心ともいえる部分です。復活の信仰を取り除くと、信仰はむなしいものとなってしまいます。イエスの生涯が十字架の死で終わりならば、すべての人の罪の身代わりの死という主張も、根拠のない主張となり、イエスがどんなに勇敢に十字架の道を選び、それを受け止めたていたとしても、反対者の策略が勝利を宣言し、悪が善を打ちのめしたことにしかならないでしょう。

 しかし、イエスは復活されたのです。3日目に死からよみがえられたのです。それによって私たちは、現世でも希望が与えられ、死後に対する希望も与えられるのです。

 

 私たちの日常の生活の中でも、イエスの復活が日々希望を与え、死ですべてが終わりではなく、死の先にも希望があるとクリスチャンは信じるのです。

 昔々のイエスさまの言葉と行いが、今に生きる私たちの生き方にも関わるのは、よみがえられたキリストが今も生きておられるという復活の信仰によって、単に過去の教えを今の私たちの生活にあてはめ、愛をもって、優しく、正しく生きるという道徳的な感化が時代を超えて響いているという以上に、今も生きておられる「まことの神」が、私たちの人生に愛をもって臨み、関わり、その人生を祝福し導いてくださるという、神との関わり(人格的な神と人間の交流)の現在性(決して過去の出来事でなく、現代に生きる私たちにも経験できる)があるからです。

 

 年長児たちは、今年、神さまがこの世界をつくられた天地創造のお話からスタートし、後半は、特にイエスさまの生涯の最期の一週間、十字架への道と、十字架の死、そして、今週の復活までを聞いて、卒業を迎えます。

 

 十字架だけでなく、復活という出来事を心のうちに握りしめて、これからの人生を歩んでほしいと願っています。よみがえられたイエスさまが、一緒にいてくださる、守ってくださる、支え、助け、導いてくださることを信じることができるなら、問題に直面しても、勇気をもって乗り越える力をイエスさまがくださることを経験することができるでしょう。

 人間にとって、それは大きな大きな問題である死をも超えることができたお方が、共にいて助けてくださるのです。

 

 繰り返しになりますが、復活の信仰は、神が今も私たちに生きて関われる方だということを示しています。単に良いお話、正しく生きることの重要性ということではなく、生きる力そのものをくださる。正しく生きる力をくださるのです。

 心を開いて「イエスさま」と祈れば、イエスさまはその祈りをちゃんと聞いてくださいます。イエスさまと繋がって生きることを願えば、いのちも、愛も、力も、希望も注がれるのです。

 子どもたちは、そういうイエスさまを身近に感じながら御国を巣立っていきます。主イエスの恵みがいつまでも共にありますように!

 

February 26, 2017

02/27(月)~03/03(金) 「イエスさまの十字架」

お話の解説

聖書:ヨハネの福音書ヨハネ19章17-42節

主題:イエスは人類の罪の贖いを完了させた

目標:イエスさまによって罪が赦されることを知る

 

 今週は、イエスさまの十字架のおはなしです。子どもたちにとっては悲しい、痛いお話かもしれません。十字架はアクセサリーとしても愛され、また讃美歌でも十字架は「麗しい」、「慕わしい」と歌われてもいますが、それは、そこで私たちのためにイエスが血を流し、救いの道を開かれたイエスの「特別なお仕事」が「完了した」からであり、そこに神の愛が示されたからにほかなりません。

 それでも、十字架は本質的には、ローマの極刑であり、目を覆いたくなる、目をそむけたくなるほどに、怖く、悲しく、痛ましいものであるのです。

 聖書は昼の12時から「全地が暗くなって、3時まで続いた」(ルカの福音書23章44節)と記しています。それは神さまがイエスから御顔を背けられたことを表現していると理解しています。罪を犯したことがない神の御子が、罪人の一人として神の罰を受け、神は罪から御顔を背けられた…。イエスがゲッセマネで苦しみの内に祈ったのも、この神が御顔を背けられる、神の怒りをその身に受けるという経験したことのない神との断絶を思ったからでしょう。

 神が目をそむけられるという表現と、私たちが目をそむけたくなるという表現には、本質的な違いはあっても、そこに十字架の本当の意味が隠されているのは同じだと思います。神は罪を嫌い、見逃すことはできない。罪には罰が伴い、その罰は私たちに目にも悲惨で、また痛ましいものでしょう。その痛みを神ご自身が引き受けられ、解決の道を開かれた。そこに神の正義と神の愛が交差するのです。

 次週は、十字架に続く復活のおはなしですが、英国の神学者アリスター・マクグラスは『十字架の謎』という本を書きました。十字架だけを見たならばその意味は理解できない。しかし、十字架は復活から見るときにその意味が見えてくる。彼はそう主張しています。十字架だけでは悲しく痛みをもたらすでしょう。しかし、復活がすべての状況を変えるのです。そこにキリスト教信仰の中心があるのです。

February 19, 2017

02/20(月)~02/24(金) 「イエスさまの裁判」

お話の解説

聖書:ヨハネの福音書ヨハネ18章19-24節、18章28節-19章16節

主題:罪のない神の御子に十字架刑が宣告された

目標:イエスさまには何の罪もなかったことを知る

 

 今週はイエスの裁判というお話です。ゲッセマネの園で逮捕され、そのままときの大祭司カヤパの舅であるアンナスの元へと連行されたイエスでした。

 ここでは裁判のために緊急議会が招集され、議員が集まるまでの間に予備尋問が行われたようです。イエスの逮捕自体に、明確にイエスの処刑を確定させるための裁判が前提にありました。

 アンナスの問いにイエスは「わたしは世に向かって公然と話しました。わたしはユダヤ人がみな集まって来る会堂や宮で、いつも教えたのです。隠れて話したことは何もありません。なぜ、あなたはわたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、わたしから聞いた人たちに尋ねなさい。彼らならわたしが話した事がらを知っています。」(ヨハネの福音書18章20-21節)とお答えになりました。それは、そこかしこに死罪に当たるようなことは何一つないという確かな証拠にあふれているということでしょう。

 結局、死罪や投獄に当たるような罪は何一つ見いだすことができなかった裁判でした。しかし、どうしても処刑への道筋をつけたいユダヤ人の指導者たちは、イエスに対して「あなたは神の子ですか」と問いました。イエスは「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」(ルカの福音書22章70節)と答えました。この答えが神への冒涜に当たると、裁判で死刑に定められたのです。

 当時のユダヤ人たちには死刑を実行する権限がありませんでした。それで総督ピラトの元へと連行し、「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」(ルカの福音書23章2節)と、イエスが政治的なクーデターを企てる危険人物であるかのように訴えました。それは神への冒涜という罪状では、ローマ側から死刑判決を引き出すことができなかったからです。

 ピラトは「この人には何の罪も見つからない。」(ルカの福音書23章4節)と答えます。しかし、それでも執拗にイエスの死刑判決を望むユダヤ人指導者たちがいました。

 ピラトは無実を確証し、イエスを保釈しようとします。ユダヤ人の指導者だけでなく民衆を呼び寄せてイエスの釈放を宣言します。しかし、民衆はイエスを十字架に付けろと大声で要求します。ピラトはイエスを保釈しようと民衆に呼びかけます。しかし民衆はさらに十字架を求めて叫びます。こんなやり取りが3度繰り返えされ、ついに民衆の声が勝ってしまいます。(ルカの福音書23章13-25節参照)

 イエスの逮捕も裁判も、公正なものではありませんでした。中心にあったのはユダヤ人指導者たちのイエスに対するねたみでした。

 しかし、神はイエスの十字架の道筋をとどめられることはありませんでした。そこにすべての人間に対する罪の赦しがあったからです。

 悲しい世界の歴史の中で、イエスを十字架につけたユダヤ人への攻撃がありました。イエスを十字架につけたのがユダヤ人指導者のねたみだったと、その罪を責め、攻撃してきた歴史があります。

 しかし、「イエスを十字架につけたのは、私の罪だった。」私のためにイエスは死んでくださった。そう信じるのがキリスト教信仰の中心点です。

 確かにユダヤ人の手によって死刑に定められたでしょう。しかし、それは私のため、あなたのための神の愛なのです。

February 12, 2017

02/13(月)~02/17(金) 「イエスさまの逮捕」 

お話の解説

聖書:ヨハネの福音書18章1-13節

主題:十字架に向かわれるイエス

目標:神のご計画に従い、進んで十字架に向かわれたイエスに感謝する。

 

 2016年度の聖書のお話も3月13日が最後になるため、ほぼ1カ月を残すのみとなりました。年長児は3月10日に卒業式を迎えるので、全学年そろっての朝礼での聖書のお話は3月9日が最後です。

 今年度は、ヨハネの福音書を中心にイエス・キリストの生涯のファイナル・ウィークをたどっています。全体で21章あるヨハネの福音書ですが、このファイナル・ウィークの記述は、全体の約半分に当たります。ヨハネは明らかにファイナル・ウィークの受難と十字架に中心をおいて記述しています。

 前週のゲッセマネの園での祈りに続く、イエスの逮捕という出来事ですが、たった一人を捕らえるのに、時の宗教指導者たちは、軍事的権力と結託して一部隊(200人とも600人とも理解されています。)を動員してことに当たっています。

 イエスは祈りの中で、これから自分が経験する十字架という出来事が、私たち人間の罪を贖うためにどうしても必要不可欠な神のご計画であることを確信し、まっすぐに十字架目指して進んでいく姿が描かれています。自分を捕らえるために来た人々に対して、「誰を捜すのか」と問います。「ナザレ人イエスを」との答えに「それはわたしです」と答えます。原文で、旧約聖書における神が「わたしはある」と、神がご自身を示された表現と同様の表現が使われています。

 神である方だからこそ十字架で身代わりとなることができる。それができる唯一の方が罪なき神のひとり子イエス・キリストなのです。

 逃げることも戦うこともできた状況でしょう。しかし、イエスは静かに捕縛され連行されていくのでした。

 罪の贖いを成し遂げるために。

February 06, 2017

02/07(火)~02/10(金) 「ゲッセマネでの祈り」

おはなしの解説

聖書:ルカの福音書22章39-54節

 

 ゲッセマネの祈りと呼ばれている十字架直前の出来事ともいえる個所です。

夕方、弟子たちと共に食事をし、食事の後に、弟子たちをともなって、いつも祈りの時間を過ごしていたゲッセマネの園へと出かけて行きました。

 罪なき神の御子イエスは、父なる神との関係が絶たれたことは一度もありませんでした。父なる神との豊かな関係を楽しみ、それが失われたことは一度もなかったのです。しかし、罪なき神の御子が、罪人の身代わりとして神の怒りを受けるとは、神との関係を全く断たれ、神の刑罰を受けることを意味しました。

 

 ゲッセマネの祈りの背景には、実際に受ける肉体的な痛みを避けたいと願うというよりも、失われたことのない豊かな親しい関係を絶たれてしまうという深い悲しみと苦しみがあったと言えるでしょう。

 今、まさに近親者を先に天に送った遺族の悲しみを身近で経験していますが、力も気力も枯れ果ててしまったかのように悲しみに沈んでいるのを見ながら、天国での再会という希望を胸に抱きながらも、この地上での親密な関係が失われてしまった悲しみの大きさを思わされています。

 まさにイエスが苦しんだのは、父なる神との断絶の悲しみであり苦しみでした。しかし、十字架は父なる神の御心でした。人間の罪を贖う(代わりに罪の刑罰を御子が受けることで人間に赦しを与える)ために、神ご自身が、人間に代わって提示した一方的な愛でした。人間が神に対して支払いきれない負債を、肩代わりしてくださることで解決しようと申し出てくださったのです。

 祈りの中で、そのためにこそ、ここまで進んできたことを確信し、祈りによって力を注がれ、しっかりと前を向いて立ち上がったイエスの姿が描かれています。苦しみの先に大きな喜びがあることを確信して十字架に向かって進んでいくイエスの姿があるのです。

January 29, 2017

1/30(月)~2/03(金) 「最後の食事」 

お話の解説

聖書:ルカの福音書22章1-23節(ヨハネの福音書13-17章)

 

 今週と来週の聖書のお話は、教案のカリキュラムを離れて「最後の晩餐」と「ゲッセマネの祈り」を取り扱います。

 最後の晩餐は、キリスト教で大切に守られ行われている「聖餐式」という営みの密接に関係しています。

それは「主の晩餐」や「聖餐式」あるいは「聖体拝領」、「聖体の秘跡」とも呼ばれます。そして、歴史的に教会の礼拝の中心をなすものでもあったほどに、大切にされてきたものでした。

 イエスさまが最後の晩餐の中で、パンを裂き「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」(ルカの福音書22章19節)、杯を取り「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」(同20節)と語られ、定められたと理解しているからです。

 

 1月の暗唱聖句も、最後の晩餐のときに語られた言葉です。福音書記者のヨハネは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と語られたイエスの言葉を記録しています。

 「父なる神のみもとに来る」ためには「イエス・キリスト」が必要不可欠だと告げられています。最初の人アダムと妻のエバが神に背中を向けて以来、失われ続けて生きた父なる神との関係を、究極的に回復する鍵がイエス・キリストご自身であり、最後の晩餐において示されたキリストの十字架の贖いなのでした。

 道として、真理として、いのちとしてご自身を、父なる神との関係の回復の鍵と示されているのが、1月の暗唱聖句の意味なのです。

January 22, 2017

1/23(月)~1/27(金) 「エルサレムに入るイエス様」

お話の解説

聖書:ヨハネの福音書12章12-19節

主題:救いをもたらす平和の王。

目標:救い主イエスを自分の王として心に迎える。

 

 いよいよ今年度もイエス・キリストの地上での生涯のファイナル・ウィーク(最終週)のお話に入ります。

エルサレム入城と呼ばれるエピソードが今週の個所です。

 イスラエルの三大祭りのひとつ、過越祭の5日前の日曜日の出来事です。イエスさまは巡礼のためにエルサレムに訪れていた人々の熱狂的な歓声に迎えられてエルサレムに入られました。これまでも何度も足を運んだエルサレムですが、これが最後になります。

 人々は棕櫚の葉を手にし、大声で叫んで言いました。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネの福音書12章13節)

 ホサナという叫びは、旧約聖書の詩篇118篇25-26節で「ああ、主よ。どうぞ救ってください。・・・主の御名によって来る人に、祝福があるように。」と用いられているように、「今、お救いください」という意味のことばでした。

 詩篇には、「イスラエルの王に」という言葉はありません。民衆がどれほどイエスに対して期待していたかを表している表現でしょう。人々はイエスがいよいよイスラエルの再建のために立ち上がり、政治的にも、軍事的にも、ローマ帝国の支配下から助け出してくれる特別な指導者と認識していたことを表しています。

 それとは対照的にイエスは平和の象徴ともいえるロバのそれも子どものロバに乗られてエルサレムに入られたのでした。そこには明確なメッセージがありました。熱狂する群衆に対して言葉を発して伝えるのではなく、目に見える行動でメッセージを発したイエスの姿があります。

 そのメッセージには二つの側面がありました。第一にイエスは神が油を注がれた救い主としてエルサレムに来られたというメッセージです。旧約聖書のゼカリヤ書9章9節にある「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」とう預言がイエスにおいて成就したというメッセージです。救いをもたらすためにこそイエスは来られのです。

 しかし、それは群衆が期待していたような政治的・軍事的なリーダーとしてではありませんでした。戦いによって勝ち取る解放ではなく、平和を携え平和のうちに来られたという二つ目のメッセージがありました。王は戦時中は馬に乗って戦いましたが、平和な時はロバに乗っていた背景がありました。イエスは平和の君として来られた救い主だったのです。

January 15, 2017

1/16(月)~1/20(金) 「香油注ぎ」

お話の解説

聖書:ヨハネの福音書12章1-8節

主題:葬りの備え。

目標:自分にできることで、主に感謝をささげる。

 

 マリヤは300グラムものナルドの香油をイエスの足に注ぎ、自分の髪の毛で拭いました。それは通常考えられない使い方でした。香油は、少量を皮膚や髪に使う化粧品として使われた他、死者の埋葬のために腐敗臭を和らげる目的で使われました。

 それは高価な香油で、弟子のひとり、イスカリオテのユダが300デナリにもなるだろうと指摘しているように、非常に高価なものでした。一デナリは一日の労働賃金に当たる金額と言われています。単純に現代の金額に置き換えることは難しいでしょうが、週休2日であれば、60週で300日ですから一年以上働かなければ買えないほどの価値があるものでした。

 マリヤは自分の心の中にあふれている感謝を表したかった。自分ができる最高の表現で感謝を表したかったということでしょう。自分が大切にしていた宝物をイエスさまのために惜しみなく使いたいと思ったのでしょう。

 イエスさまは、マリヤの気持ちを、その心の内にある感謝をちゃんと理解して受け止めてくださいました。そして、マリヤが意図した以上の意味をそこに見たのです。イエスの生涯はここから十字架に向けてまっすぐに進んでいきます。「葬りの日のために」(ヨハネの福音書12章7節)マリヤが行ったと語る言葉の意味が、その時周りにいた人たちには理解できなかったでしょう。

 今週の目標や主題にあるように、今週のお話は、一方では自分のできる方法で心から感謝をささげることを励ます一方で、聖書のお話の大きな流れからは「十字架」というキリスト教信仰の中心点に向かって進んでいくイエスの生涯の導入の意味も持っているなの内容です。

January 10, 2017

1/11(水)~1/13(金) 「宮きよめ」 

お話の解説

聖書:ヨハネの福音書2章13-16節

主題:心からの礼拝に導いてくださるイエス。

目標:神と私たちをつないでくださるイエスを信じて、心からの礼拝をささげる。

 

 新約聖書の記述の中でも数少ない「怒るイエスの姿」が描かれている個所です。愛を説き、柔和で穏やかなイエス像とは異なる「怒るイエス」に戸惑うかもしれません。もっとも聖書本文に「怒る」という表現は見つかりません。しかし、細縄でむちを作り、羊も牛も神殿から追い出し、両替人たちの台を倒し、お金を散らし、「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない」と告げる言動は、穏やかなイエスとは違う厳しい側面を描き出しているのは紛れもない事実です。

 しかし、ただ怒りにまかせて暴れているイエスではありません。動物を追い払うのも細い縄で作ったムチで、追い出すことに必要な道具として用いたものでしょう。痛めつけるためのムチでもなく、殴ったり、蹴とばしたりと傷つけてはないのです。

 そこには真実に礼拝を捧げることを求めるイエスの心があります。神が求める捧げものは、牛や羊や鳩という動物の「全焼のいけにえ」ではなく、「砕かれた、悔いた心」だと旧約聖書の詩篇51篇16-17節にもある通りです。確かに、いけにえの動物も外国の通貨からの両替も、礼拝のためには必要だったかもしれない。しかし、捧げ物以上に、大切な礼拝の心を神はご覧になるのです。

 数々のお店が商売を行っていたのは、「異邦人の庭」と呼ばれ、本来、神殿の中へと入ることが許されていない異邦人たちが唯一入って祈りをささげることができる場所でした。しかし、これらの商売人があふれる異邦人の庭に、異邦人の祈りの場所はありませんでした。祈りたくても、礼拝したくても場所を奪われていたのです。

 最初は純粋だったのかもしれません。旅人の負担を減らすための行為だったかもしれません。しかし、時間と共に変わってしまう心や姿があることに注意を払わなければならないと思わされます。

 原点回帰…そんな言葉が心に浮かんできます。First Love はじめの愛…そんな言葉も心に浮かんできます。

この年、礼拝を大切にする心を意識したいと思います。

 イエスのこの言動は二種類の反応を引き起こしました。一方ではイエスを救い主であり、この行動が主なる神のためであると認める反応があり、もう一方ではこのような行動に出る根拠を示せという反応でした。これにイエスは「この神殿をこわしてみなさい。わたしは三日でこれをたてよう」と答えます。

 それはイエス・キリストの十字架の死と復活を通してもたらされる動物の犠牲を中心とした神殿祭儀から、イエスを通しての新しい礼拝への移行を指している言葉でした。

December 11, 2016

12/12(月)~12/16(金) 「闇に輝く光」 お祝いをしに行った人たち 

お話の解説

聖書:ルカの福音書2章8-20節、マタイの福音書2章1-12節

主題:まことの光であられる主

目標:救い主のお生まれを感謝して心から祝う

 

 イエスさまの誕生のニュースを知った人々のリアクションは大きく2つにわかれました。羊飼いや東方の博士たちのように「行動に移した人たち」がいました。

 他方、博士たちの来訪を受けて、「ユダヤ人の王の誕生」を耳にした、時のユダヤの王・ヘロデは聖書の専門家たちに「救い主はどこで生まれるのか?」と情報の提供を命令します。専門家たちは即答できました。「ユダにベツレヘムです。」それは、旧約聖書の中にあるミカ書という預言書に書かれていることだったからです。

 ヘロデ王がどこで生まれるのか知りたかった理由は、自分の王位を危うくする存在を取り除きたかったからでした。そう、殺してしまいたかったのです。(ヘロデはユダヤ人ではなくエドム人でした。つまりヘロデはユダヤの王として正当な血筋ではなかったのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」と博士たちは尋ねましたが、ヘロデの心中穏やかではないのはそのような背景がありました。)

 専門家たちは自分たちが知っていた救い主が生まれる約束が成就したことを耳にしても、それでおしまい。救い主の誕生を喜ぶことも、お祝いに出かけることもありませんでした。このように「すぐに行動に移した人たち」(喜んだ人たち)と「何もしなかった人たち」(心が動かなかった人たち)の二つのグループに分かれました。

 遠い昔から神さまによって約束されていた救い主の誕生でした。アダムとエバが神さまの約束を守らず神さまとの関係が壊れてしまったときから、示されていた約束でした。時間をかけて明らかにされてきた約束でした。神さまは約束を忘れることなく、ちゃんと守ってくださったのです。うれしいですね。でも一方は行動にあらわして応答し、他方は何もしませんでした。

 行動に移したのは、当時の社会ではさげすまれ、社会の周辺に押しやられていた弱者‐羊飼いでした。また、ユダヤ人社会では自分たちと違って約束の外にいる人たちと境界線の外に置かれていた異邦人-東の国の博士たちです。救い主のお生まれを感謝して心から祝ったのは、そういった人たちだったのです。

 今年もクリスマスの時期が訪れ、町中がたくさんの光であふれています。クリスマスは、Christ+Mass(キリスト+ミサ)という二つのことばによってつくられています。日本語では降誕祭と表現されますがキリストの降誕(誕生)祝祭を指示しているわけです。

 2000年ほど前にユダヤの国のベツレヘムという町で家畜小屋の中で生まれ、飼い葉桶に静かに眠る幼子が、私に救いをもたらすために生まれてくださったと喜びをもって祝う日がクリスマスなのです。その中心にイエスさまがおられることを心に留めてほしいのです。

 子どもたちが準備してきた劇も歌も、イエスさまに捧げる一番のプレゼントになることを願っています。クリスマス祝会が、子どもたちも先生たちも、そして保護者の皆さんもイエスさまに心を向けるひと時となるように祈っています。

December 04, 2016

12/5(月)~12/9(金) 「救い主の誕生」 

お話の解説

聖書:ヨハネの福音書1章12節、ルカの福音書2章1-7節

主題:家畜小屋で生まれた神の子イエス

目標:御使いの知らせのとおりお生まれになったイエスを、神の子・救い主と信じる

 

 皇帝アウグストによってユダヤの国の人口調査の命令が下されました。ローマ帝国によって治められていた国の住民登録を通して、それどれの国の状況把握や徴税や徴兵のために人口調査はたびたびおこなわれました。

 ユダヤもローマ帝国の属国の一つとして人口調査が行われることになりました。このためヨセフは妻のマリヤをともなって、自分の先祖の町ユダヤのベツレヘムという町まで旅をしなければならなくなりました。

 この時、ヨセフはガリラヤの町ナザレに住んでいましたが、その血筋はダビデ王の家系に連なるためダビデの町と呼ばれるベツレヘムで住民登録をしなければならなかったのです。

 ナザレからベツレヘムまでは直線距離でも100キロ以上ある長旅で、現代のように道路も整備されていない時代のことで、身重のマリヤにとっては本当に命がけの旅を強いられることになってしまったのです。

 ベツレヘムに到着した彼らに、体を休める場所はありませんでした。住民登録のために町は人々であふれ、どの宿屋も満室で場所がありませんでした。

 やっと泊ることができたのは、家畜小屋でした。ここに滞在中にマリヤは男の赤ちゃんを産みました。牛の飼い葉を入れる桶に、新しい藁を敷き詰めてベッドを造りました。

 子どもたちと一緒に見たクリスマスのDVDのなかで、「イエスさまはきらびやかな宮殿で生まれたのではなく、誰でもイエスさまに会うことができる家畜小屋でうまれてくださったのですね」といった内容のナレーションがありました。イエスさまのお誕生は私たちに寄り添って歩んでくださるイエスさまの優しさを表しているということもできるのでしょう。

November 27, 2016

11/28(月)~12/2(金) 「ヨセフの夢」(救い主の預言と成就) 

お話の解説

聖書:マタイの福音書1章18-23節

主題:人となって来られた救い主

目標:神であるお方が、人間の姿をとって私たちのそばにおいでになったことを信じる

 

 福音書記者のマタイは、マリヤと結婚する約束をしていたヨセフの苦悩を描き出しています。ヨセフにはマリヤのお腹の中の赤ちゃんは自分の子どもではないことを誰よりも理解していました。ヨセフは内密のうちにマリヤと離縁し去らせようと考えていました。

 律法ではマリヤのようにヨセフ以外の男性の子を身ごもるという出来事に対し、石打の刑で殺されなければなりませんでした。

 ヨセフは、マリヤが石で打たれて殺されるところを見たくはありませんでした。かといって、このまま結婚することもできませんでした。

 ひとり心の内で悩むヨセフに夢の中でみ使いが語りかけます。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(新約聖書マタイの福音書1章20-21節)

 これは旧約聖書の中にあるイザヤ書に預言されていた言葉の成就なのだと、マタイは告げます。「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。 『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」(同22-213節)

 ヨセフは、マリヤを妻として迎え入れ、子どもが生まれるまでマリヤと関係することなく、マリヤを愛し支え守りました。

 このようにしてベツレヘムでのイエスの誕生に向けて、状況は様々な人々を通して整えられていくのでした。

November 20, 2016

11/21(月)~11/25(金) マリヤへの御告げ 

お話の解説

ヨハネの福音書 1章9節、ルカの福音書1章26-38節

主題:私たちのために救い主が生まれる。

目標:マリヤの信仰に倣い、神のことばを素直に受け入れる。

 

 救い主イエスの母として神に選ばれたのは、ガリラヤのナザレに住んでいたマリヤでした。前週のお話に登場したザカリヤへの妻エリサベツの受胎告知から半年後の出来事と聖書は告げています。

 御使いガブリエルは、神からのメッセージを携えてマリヤのもとに遣わされてきました。この時、マリヤは10代の半ばから後半ぐらいの年齢だったと思われます。ヨセフとは結婚の約束をしていました。当時の習慣では婚約の期間も法的には妻とみなされましたが、実際に生活を共にする夫婦生活は結婚式のあとからでした。マリヤが受胎告知を受けたのは、この婚約期間中であり、まだヨセフとの間に子どもができることなど考えられない状況にある時でした。ですから「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに」(ルカの福音書1:34)とマリヤは答えます。

 マリヤの答えに対して御使いが告げた言葉は、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」(同1:35)というものでした。人間の営みによって生まれるのではなく、かつて最初の人間を地の塵から形作り、息を吹き込まれ生きる者とされた神が、この天と地のすべてを造られ、支えておられる神が、マリヤの胎内に神の御力によって、新しい命を造られるということです。

 キリスト教信仰の中心にあるイエス・キリストに対する信仰の一側面は、「処女マリヤ」が人間の営みによらず「神」によって身ごもり生まれたイエスの内に、完全な人性があり、同時に完全な神性があると信じる信仰にあらわされています。

 新しい命が母の胎内で生み出されること自体も、奇跡と言えるほどの神の御業だと思いますが、マリヤの胎内で始まった新しい鼓動は、本当の奇跡、不思議な神の御業として信じられているのです。

 10代の少女が直面した神の選びに、少女は素直に応答していきます。マリヤが選ばれたのは、「うわべではなく心を見られる主」(11月の暗唱聖句参照)が、マリヤの心の内にある神に対する信仰と従順さのゆえに選ばれたと言えるのでしょう。

November 13, 2016

11/14(月)~11/18(金) 救い主を紹介するために生まれた人

お話の解説

ヨハネの福音書1章6-8節、ルカの福音書1章5-25,57-80節、3章1-18節

主題:世の光としておいでになる救い主を紹介するために生まれたヨハネ。

目標:救い主イエスを「光」と認識し、クリスマスを迎える心の準備を始める。

 

 幼稚園では一足先にクリスマス・シーズンのお話になります。キリスト教独自のカレンダー「教会暦」は、イエス・キリストのご降誕に向けての準備期間(アドヴェント)からクリスマス・シーズンに入ります。今年は11月27日から始まります。そして、この日は教会暦の新しい年間サイクルの始まりにもなっています。

 今週の登場人物、ヨハネは「洗礼者ヨハネ」あるいは「バプテスマのヨハネ」と呼ばれている救い主の到来に先立って、救い主の到来を告げ、人々の心を悔い改めに導き、道備えをした人物として紹介されています。

 クリスマスには、たくさんの光が飾りつけとして用いられますが、これは福音書の記者ヨハネが、救い主の到来を暗闇を照らす光というモチーフで描き出しているように、クリスマスの飾りつけに用いられる光は、救い主イエスが世の光としてこの地上に来られたことを表現しています。

 「神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」(ヨハネの福音書1章6-8節)と告げられているように、バプテスマのヨハネ自身は光として描かれず、光について語り、光を指し示す存在として描かれています。

 

 幼稚園の中では12月の祝会に向けて、そして教会では12月25日のクリスマスに向けて、救い主のご降誕を待ち望み、備えるシーズンに入ります。

 心を照らし、希望を与え、私たちの人生に共に歩んで、支え、助け、導いてくださるイエスを今一度、心にお迎えする準備の期間を過ごします。

 今年のクリスマス・シーズンがお一人お一人に特別な期間となるように、主の恵みをお祈りしています。

November 06, 2016

11/07(月)~11/11(金) 選ばれたダビデ サムエル記第一 16章1-13節

お話の解説

主題:人の基準とは異なる神の選び

目標:いつも私たちの心をご覧になっていることを学ぶ。

 

 サウル王が自分勝手な振る舞いで神さまの命令を軽んじるようになり、イスラエルの王としての責任を果たせなくなっていきました。神さまはサウルに代わる新しい王をベツレヘムに住むエッサイの息子たちの中から選んでいることをサムエルに告げます。

 「エッサイ」は、旧約聖書のルツ記に記されているボアズとルツの間に生まれた「オベデ」の子どもでした。

 

 ダビデは末息子で、サムエルが特別な席にエッサイと息子たちを招待した際にも、父エッサイよりその場に同席することを求められず、ただ一人野原で羊の番をするように命じられていました。まだ幼いから特別な場に同席するには早すぎると思われたのでしょうか。いずれにしろ同席する価値を父からも認めてもらえないようなダビデが神の目に留まったのです。

 サムエルが一番上の息子のエリアブを見たときに、その容姿や雰囲気から、確かに王にふさわしいと心のうちに思いました。しかし、主なる神さまは、外見が大切なのではなく、心の方がとても大切だとエリアブを選んでいないことを告げられます。

 ダビデが選ばれたのは、その心が神さまを求め、神さまを信頼し、神さまを信じる心をもっていたからでした。サウルが退けられたのは、まさに神さまよりも人の目や人の声の方を大事にし、神さまを愛し、従う心を失っていったからでした。

 ダビデの人生を見るとサウル以上に大きな失敗をし、大きな罪を神の前に犯します。しかし、それでも過ちを示されれば心から赦しを求め、自分の罪を認め、心から悔い改めていきます。

 神さまが求められる心は、神さまを愛する心、神さまを信頼する心、神さまに従う心なのです。ダビデはその心をもっていたからこそ選ばれたと言えます。

 ここで新しい王として選ばれたダビデですが、実際に王となるのはもう少し後のことです。様々な出来事の中で、整えられ、成長し、経験を積み重ねてやがて真に王として国を治めるに至ります。その人生の中で、神を求める心を失わず、成長して行ったのがまさにダビデの生涯です。

October 30, 2016

10/31(月)~11/04(金) サウルの失敗 サムエル記第一 13章1節~1-14節

お話の解説

主題:神に頼らず自らを頼る者の過ち。

目標:神に頼り、神のことばを守ることの大切さを学ぶ。

 

 サムエルはイスラエルの民に次のように語っていました。「あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王が私たちを治めなければならない』と私に言った。 今、見なさい。あなたがたが選び、あなたがたが求めた王を。見なさい。主はあなたがたの上に王を置かれた。もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、あなたがたの神、主のあとに従うなら、それで良い。もし、あなたがたが主の御声に聞き従わず、主の命令に逆らうなら、主の手があなたがたの先祖たちに下ったように、あなたがたの上にも下る。」(サムエル記第一12章12-15節)

 神さまは民の求めを聞き届けサウルをイスラエルの王として選びましたが、それでもイスラエルの本当の王さまは神さまご自身であり、サウル王もイスラエルの民もそのことを決して忘れてはなりませんでした。

 神に祈り、神に聞き、神に従うことが何よりも求められた王の資質でした。(…王だけではなく、本当はすべての民に求められる姿勢でした。しかし、人の上に立ち民を導く王にとっては必要不可欠な要素なのでした。)

 しかし、サウル王はどうしても人の目や人の評価が気になる弱さを抱えていたようです。今週の聖書のお話で、サウル王がしてはならない神へのささげものをささげたのも、サウルを捨てて離れ去っていこうとした人々をつなぎ留めておくためでした。

 サウルが王に選ばれた時に、サウルを軽蔑し、否定した人たちの存在を聖書は記録しています。もちろん、それはサウル自身を否定した以上に、サウルを王として選んだ神ご自身を否定していた人たちでした。(神を否定する人々が神の御業を否定し、神の選ばれたサウルを否定したという意味で、サウルが自身が否定されたのではないのでしょう。たとえそれが誰であっても否定されたに違いないと思います。)しかし、否定された出来事によって、サウルの心に傷を残したように思います。人の声や人の評価に囚われるサウルの傾向は、この傷の疼きを埋めようとするサウルなりの対処法だったのでしょう。

 残念ながら、本当に心を守り、心をいやすのも神さまであることをサウルは忘れていました。否定された出来事に対して、「サウルは黙っていた」(同10章27節)と記されていますが、神を見上げ、祈り、疼く心を主に取り扱ってもらえばよかったのに、黙って自分で何とかしようとした結果が、さらに深みへとはまる結果へとつながったと言えるでしょう。

 神に目を向け、神を神とするときに、自分を自分として個性的につくられた主の御業に気づかされ、人の声や評価の束縛から解放され自由になることをサウルは経験できないまま表舞台から消えていくのでした。

October 23, 2016

10/24(月)~10/28(金) 最初の王さまサウル サムエル記第一 8章1節~10章24節

お話の解説

主題: 神から離れ主求める民と、聴き入れる神。

目標:すべての人を治めるまことの神こそ、私たちが頼るべきお方であることを知る。

 

 国家の三要素という言葉を聞いたことがあると思います。19世紀のドイツを代表する公法学者、ゲオルク・イェリネックの学説に基づくものですが、ひとつの「国家」として認定される基準要項は「主権」、「領土」、「国民」と3つだと言われています。

 イスラエルの国は、この主権(者)は神ご自身でした。国民は、もちろんイスラエルの人々ですが、神が選ばれたアブラハムという一人の人物からイサクという子どもが生まれ、イサクに生まれたヤコブから12人の子どもたちへと増え広がり、そして、この12人が飢饉のために身を寄せたエジプトの地において、12の部族、一つの民族を構成するほどに成長して行く様子が旧約聖書の創世記から出エジプト記にかけて記されています。

 イスラエル民族は、エジプトからカナンへ向けての40年の旅の末に、約束の地としてカナンを領土として取得していきます。イスラエル民族は、神をまことの王とする特別な国でした。しかし、神を王とし、士師と呼ばれるリーダーが治めてきた士師記の時代は、信仰面では凋落の一途をたどった暗黒時代と言えます。サムエルが生きた時代は、この士師の時代の最期であり、王制への移行を遂げた時代でした。

 サムエルの悲しみ、サムエルの憤りは、神が治める国という意識が失われていることに対してでした。もちろん部分的には自分に対する非難を感じたでしょう。それは、自分の息子たちが神に仕える者でありながら、神を忘れ金銭を愛し、わいろによってさばきを捻じ曲げていたことが、王を求める人々の声となっていったからでした。とは言え、民の問題に対する解決策が、他国のように王が立てば国は安泰と考え、神を二の次に、問題の解決は神に求めること、神に立ち返ることでは得られないと考える人々の心を憂い、悲しむサムエルの姿があります。

 サムエルは、母ハンナのように神に向かって心を注ぎだします。問題の解決を神に求めます。それは幼い日から、「主よ、お話しください。」と神と共に歩んできたサムエルの姿勢がここでも表されています。

 最初の王、サウルは、イスラエルの氏族の中で、最も小さいベニヤミン族から選ばれました。しかし、誰よりも背が高く、健康で、ハンサム。それだけでなく親に対する従順さ、やさしさ、配慮を兼ね備えた人物でした。誰の目にもふさわしく映ったことでしょう。神によって選ばれたサウルは、神に従って国民を治める王として描かれています。しかし、続けて見ていくように、成功が積み重なる中で、心高ぶり、神を忘れて行くサウルの姿が聖書には描かれています。サウルにとっても大切な姿勢は、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」という姿でした。決して忘れてはならない王の姿勢だったのです。

October 16, 2016

10/17(月)~10/21(金) 少年サムエル「神さまに呼ばれたサムエル」 サムエル記第一 3章

お話の解説

主題:耳を傾けて聴く者にお語りになる神。

目標:神が自分に語りかけてくださるという気持ちをもって、聖書の話を聞く。

 

 サムエルは旧約聖書のサムエル記に登場する、最初の預言者であり、最後の士師(日本語の聖書では「士師」、英語では「ジャッジズ」で、「さばきつかさ」とも訳されていますが、わかりやすく言えばリーダーであり敵国の攻撃からの救助者でしょう。)

 

 イスラエルの歴史の中で、大きな時代の節目に登場し、新しい時代へと民衆を導く神の器として描かれているサムエルです。イスラエルは、隣国が王政を敷くなか、神ご自身を王として神に導かれる国として歩んで来ました。しかし、約400年の士師がイスラエルの国を導いた時代は、信仰的には暗黒時代と呼ばれるほどに、人々の心は神から離れて生活が営まれていました。そんな暗闇に光を灯すように、神の語りかけを聞き、神に仕えるリーダーとして起こされたのがサムエルその人でした。

 

 サムエルの母、ハンナは不妊の女性で悲しみと嘆きを、神さまの御前に注ぎでして祈る女性として描かれています。母ハンナのうちにある神に対する信仰がサムエルの誕生に大きく影響を与えています。「子どもをお与えください。男の子が生まれたら神さまのお仕事をする人として育てます。」その祈りに神は答え、ハンナは祈った通りに、サムエルを神さまのお仕事のお手伝いをする者として育てます。サムエルが主の語りかけを聞き分けることができたのは偶然ではなく、そのような母の信仰が背景にあって、神さまを大好きな子どもとして育てられていった結果でもあるでしょう。

 

 「お話しください。聞いています。」という心は、語られる方に対してちゃんと顔も心をまっすぐに向けて、ちゃんと語られることを受けとめる姿勢があることを示すものでしょう。大切なことは聞く耳と聞いたことを受けとめる心と、それを実行する行動力でしょう。それは神さまのお話に対しても、お父さんやお母さん、そして先生のお話を聞くときにも大切な姿勢でしょう。

September 18, 2016

09/20(火)~09/23(金) ペテロ3 「ペテロの新しい出発」 ヨハネの福音書21章1-19節

お話の解説

主題:赦しと励ましを与えてくださるイエス。

目標:自分の弱さに苦しむのではなく、愛してくださる主イエスに信頼して立ち上がる。

 

 自信満々だったペテロでしたが、3回も「イエスなんて知らない、自分は関係ない」と否認してしまったことを自分では処理できず、心の傷となり痛みを伴って悲しんでいたことでしょう。消しゴムで消せたらいいのに…、きれいさっぱり洗い流せたらいいのに…。でも、やっぱり3回も「知らない」と言ってしまった自分を自分で赦せないペテロがいたように思います。

 

 同じ出来事をマタイも記していますが、この時、「誓って、『そんな人は知らない』」(マタイの福音書26章72節)と否定し、3回目には「『そんな人は知らない』と言って、のろいをかけて誓い始めた。」(同26章74節)と、とことんイエスとの関係を否定し、知らないと言っていることが偽りであったらのろいを身に招いてもかまわないというくらい否定の限りを尽くしたことが描かれています。

 

 イエスさまは、弱さを知っていてくださる。そればかりか自分で消さない心の汚れも、傷がついてしまった心も、十字架の上で全部処理して、受け止めて、きれいにすることができるようにしてくださっていたのです。   

 

 けれどもペテロは、自分で自分が赦せず、イエスさまが愛してくださっていることを受け留めることにも自分でブレーキをかけてしまっているように思います。

 だからこそ、あえてイエスさまはペテロと一対一で向かい合って、ペテロに問いかけることで、心の傷をいやし、思いをいやし、キリストの愛の中で生きることができるようにケアされているのです。3回の否認と3回の問いかけは決して偶然でも無い、イエスさまの意図がそこにあります。

 

 ペテロがイエスを愛するかどうか、イエスはペテロに三度尋ねられた。最初にイエスは「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか(ギリシヤ語でアガペー、つまり意思に基づく献身的な愛)」と言われた。二度目は、イエスはペテロだけに焦点を合わせ、同じくギリシヤ語アガペーに訳されることばを用いられた。三度目には、フィレオ―(愛情、親近感、兄弟愛を意味する)というギリシヤ語に訳されることばを用いられた。これは「あなたはわたしの友であるか」ということである。ペテロは三度とも、フィレオ―と訳されることばで答えた。イエスは即座の表面的な答えには満足しなかった。イエスは問題の核心を突いた。ペテロはイエスと向かい合ったとき、自分の真実の気持ちと動機に直面しなければならなかった。イエスがあなたに、「あなたはわたしを愛するか。あなたはわたしを愛するか。あなたはわたしの友であるか。」と尋ねたなら、あなたはどのように応答するだろう。

(『ディボーショナル聖書注解』いのちのことば社2014年P.1139)

 

 失敗してもイエスの赦しがあります。イエスの愛は変わりません。自分の失敗やそのことで汚れた心、傷ついた心を見つめる目を、イエスはご自身に向けさせます。イエスを見つめる心の目を持つことで私たちはもっと自分らしく、もっと豊かに生きられるのです。

 

September 11, 2016

09/12(月)~09/16(金) ペテロ2「ペテロの失敗」 ルカの福音書22章31-34,54-62節

お話の解説

主題:人の弱さを知っていらっしゃるイエス。

目標:失敗しやすい者であることを自覚し、イエスに頼る者となる。

 

 先週のお話の中では、ペテロがイエスさまに目を向けて、イエスさまを見ていたときには水の上をイエスさまと一緒に歩くことができた出来事が記されていました。イエスさまを見つめながら生きていくことで人生を確かにすることができるのです。

 

 今週は、逆に弱さの中にいるペテロのことを、イエスさまがいかに温かく見つめてくださっていたかを、3度もイエスさまを知らないと否認したペテロの記事から知る事ができます。

 

 イエスさまが「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」と語られたのは、信仰がなくなるほどの出来事に直面するペテロのために、それでも信仰が根こそぎ奪い取られることはないようにとイエスの祈りが、危機的な状況の中でも支えとなることを前もって教えてくださっています。弱さを理解していてくださるからこそ祈っていてくださるのです。

 

 この時、ペテロは自分に対して相当の自信を持っていたようです。もちろん、ペテロだけでなく、私たちにとっても弱さを指摘されることも、弱さを認めることもなかなか受け入れることが難しい事かもしれません。

 大丈夫、絶対ない、他の人はいざ知らず自分だけは例外と自信満々な状況は、結局ここでも(自分は絶対大丈夫と)イエスから目を離しているペテロの姿が描かれています。

 

 実際にイエスと弟子たちを襲った出来事は、死と隣り合わせといえる出来事でした。イエスの反対者たちはイエスを捕らえて死刑に処することを決めて行動に移していました。もちろん目的はイエスのいのちにありましたが、一蓮托生の危機は誰よりもひしひしと感じとっていた弟子たちでしょう。イエスが捕らえられる時には、我先にと逃げ出す弟子たちの姿があります。

 

 やっぱり自分のいのちを守る方が大事だったのはペテロも同じでした。しかし、ペテロは遠くからイエスの身を案じついて行きます。が、繰り返し「イエスの弟子」と指摘されると、知らない、知らない、知らないと三度にわたり繰り返し否認してしまいます。それはイエスのことばの通りでした。

 イエスなんて知らない、イエスなんて自分と何のかかわりもない...それは、本当に信仰を根底から揺さぶられ、信仰を失うことにつながるほどの出来事でした。

 

 しかし、イエスは決して弱さを否定しません。その弱さも受容してくださり、祈り支えてくださるのです。イエスのペテロに対するまなざしは、「ほら見た事か」というまなざしではなかったでしょう。祈っているよ。信仰がなくならないように祈っているよ。わたしを信じなさい。わたしから目を離してはいけません。そう語りかけるまなざしだったでしょう。

September 04, 2016

0905(月)-09-08(木) ペテロ1 「水の上を歩いたペテロ」 マタイ14章22章-23節

お話の解説

主題:イエスから目を離さず歩む。

目標:どんな場合も主イエスに信頼するものとなる。

 

 今週のお話の主題と目標は、イエス・キリストに対する信頼~イエスさまが一緒にいてくださるから大丈夫~ということと結びついているでしょう。

 向かい風に悩まされ進めない状況にある弟子たちに、湖に沈みそうになったペテロにとって、折にかなった助けを与えてくださる方としてのイエスの姿を読み取ることができます。

 手を差し伸ばし、助けてくださるイエスさまの姿が描かれているのは確かですが、この個所の最も中心に位置している主題は「イエスは何者なのか?」であり、弟子たちがイエスを単に偉大な教師や素晴らしい人物として認識しているのではなく、神の子としての救い主イエスとして信じ、そして礼拝を捧げている出来事が描かれています。(つまり神として礼拝の対象としていることが描かれています。)

 次の聖書のみことばがキーワードでしょう。

 

そして、2人が舟に乗り移ると、風がやんだ。そして、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで『確かにあなたは神の子です。』と言った。」(マタイの福音書14章22-23節)

 弟子たちを強いて舟に乗り込ませて送り出したことも、ひとり山の上で祈っていたことも、向かい風も、水上歩行の奇跡も、ペテロが水の上を歩いたことも、沈みかけたことも、すべてが「確かにあなたは神の子です。」という告白に結びつくことを意識して聖書を読んでみてほしいと思います。

 織田昭氏の聖書の解説の中で、「奇跡に何を読み取るか」というタイトルの文書がありましたので引用してみたいと思います。

 現代国語の普通の使い方でしたら、「奇跡」は「常識で考えられない不思議な出来事」これは広辞林の定義です。大和言葉でなら、枕草子の「ありがたきもの」の極限のようなものを奇跡というのかもしれません。漢語では希有という熟語があります。奇跡的に助かったとか、それは奇跡だとか。希有のことだのように。ところが、聖書の中ではそういう「希有」または「ありえない」などという角度からではなく、そこに「神が生きて働いている」事実の衝撃を受けるときにかぎり「奇跡」と言ったのです。・・・だからもし自分に対し、個人的に迫ってくる神を感じ取ることがなければ、どれほど途方もない「希有」なことも「ありえない」ことも奇跡ではないわけです。

(織田昭 『マタイによる福音書』 1993年 いのちのことば社 p.249)

 

 聖書が読者に問いかけるのは「イエスは何者だと思いますか?」という問いかけと答えです。聖書のおはなしを通して子どもたちに示したいイエスの姿は、ここに描かれているような神の子のイエスさまです。私たちの人生に伴い、そして確かな助けを与えてくださる神の子とのイエスさまなのです。

July 18, 2016

07/19(火)

お話の解説

 1学期最後の聖書のお話になりました。今回は新約聖書のマタイの福音書5章から始まる「山上の説教」と言われる個所の中から、「空の鳥を見なさい」と語られたお話を取り上げました。

 「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。」(6章25節)という言葉に続いてイエスさまが語られた言葉が「空の鳥を見なさい」でした。鳥を養われ守られる神さまは、それ以上にあなたを守られるでしょう。神さまの守りの中で安心して過ごせることを忘れてはならない。どんなに自分のいのちを引き延ばそうとしてもできないけれども、神さまは守ってくださるのだと語るイエスさまでした。

 同じように野のユリも美しく装ってくださる神さまがいる。野の花にもそのように配慮してくださる神さまは、あなたによくしてくださらないことなどあり得ない。だから明日の生活のために心配することは無用です。神さまが与え、神さまが守られるからですと語りかけるイエスさまでした。

 子どもたちのほとんどは、私たち大人のように、明日の心配などしないかもしれません。それでも空飛ぶ鳥に目が留まり、美しく咲く花を目にするたびに、神さまが守っていてくださること、神さまの愛の中で、この瞬間も過ごしていることに心を向けてほしいと願っています。

 夏の間、自然にふれたり、家族と一緒に過ごす時間の中で、大きな神さまの愛に気づかされる機会となってほしいとも願って鳥さんとお花のお話をしました。

 夏休みの間も健康が守られ、事故や危険に会うこともなく健やかに過ごせるように、また、楽しい思い出にあふれるときとなるように祈っています。

July 18, 2016

複製 - 07/19(火)

お話の解説

 1学期最後の聖書のお話になりました。今回は新約聖書のマタイの福音書5章から始まる「山上の説教」と言われる個所の中から、「空の鳥を見なさい」と語られたお話を取り上げました。

 「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。」(6章25節)という言葉に続いてイエスさまが語られた言葉が「空の鳥を見なさい」でした。鳥を養われ守られる神さまは、それ以上にあなたを守られるでしょう。神さまの守りの中で安心して過ごせることを忘れてはならない。どんなに自分のいのちを引き延ばそうとしてもできないけれども、神さまは守ってくださるのだと語るイエスさまでした。

 同じように野のユリも美しく装ってくださる神さまがいる。野の花にもそのように配慮してくださる神さまは、あなたによくしてくださらないことなどあり得ない。だから明日の生活のために心配することは無用です。神さまが与え、神さまが守られるからですと語りかけるイエスさまでした。

 子どもたちのほとんどは、私たち大人のように、明日の心配などしないかもしれません。それでも空飛ぶ鳥に目が留まり、美しく咲く花を目にするたびに、神さまが守っていてくださること、神さまの愛の中で、この瞬間も過ごしていることに心を向けてほしいと願っています。

 夏の間、自然にふれたり、家族と一緒に過ごす時間の中で、大きな神さまの愛に気づかされる機会となってほしいとも願って鳥さんとお花のお話をしました。

 夏休みの間も健康が守られ、事故や危険に会うこともなく健やかに過ごせるように、また、楽しい思い出にあふれるときとなるように祈っています。

July 10, 2016

07/11(月)~07/12(火)

お話しの解説

 

 今週は月曜日と火曜日の2日間だけ聖書のお話をします。木曜日の夜は、年長さんに向けて特別な聖書のお話を用意しています。今年は旧約聖書の中からヤコブさんのエピソードからお話をする予定です。

 年少さんと年中さんたちは、7/11と12日、そして翌週の火曜日(19日) の3回で1学期の聖書のお話は終わりを迎えます。

 今週月曜日は「お祈りを忘れないでね。神さまはみんなのお祈りをちゃんと聴いていてくださるよ」と語りかけます。火曜日は「神さまは一緒にいてくださるよ。だから大丈夫」と語りかけます。

 それは夏休みの備えでもあり、年長さんたちのキャンプへの備えの意味もあるのです。

 

 ヨナさんやエステルさんだったから神さまはお祈りに耳を傾けて聴いてくださったのではありません。僕たち私たちのお祈りにも同じように耳を傾けていてくださるのです。幼稚園の中だけでなく、生活の折々に、神さまに心を向けて、きれいなものをきれいと感動する思いを、神さまへの感謝と賛美としてお祈りすることもできます。朝起きたときにも一日一緒にいてください。夜眠るときに、一日守られて感謝ですとお祈りすることもできます。困ったときだけでなく、寂しい時だけでなく、どんなときにも神さまに心を向けることができることを覚えていてほしいと願っています。

 

 子どもたちの心と体が、いつも主の御手で守られ支えられるように、夏休みの間も大きな病気や事故や危険から守られることを願い求めて主なる神さまに祈っています。そして、子どもたちと元気に2学期に顔を合わせることができることを楽しみにしています。

July 03, 2016

07/04(月)~07/08(金) ヨナ② 「神様に従うヨナ」ヨナ書3-4章

お話の解説

主題:情け深くあわれみ深い神。

目標:神はどのような人の事も愛しておられ、悔い改めるなら赦してくださる方であることを知る。

 

 2週続けてヨナ書からお話をしますが、後半(3-4章)は、預言者ヨナがニネベの町へと行って神さまのメッセージを伝えたことによって、ニネベの人々が自分の生き方を省み、悔い改めて神さまに心を向けて祈ったことが記されています。

 聖書の中には、自国の民に向かって神さまのメッセージを伝えた預言者たちの姿がいくつも記されています。しかし、多くの場合は聞く耳を持たないイスラエル民族の姿がそこには記されています。そのような実例からするとヨナのことばによって大きな悔い改めが起こったことは、神さまのことばを託され、神さまに代わって神のことばを取り次ぐ預言者にとっては大いに喜ぶべき出来事だと言えるでしょう。

 しかし、この時のヨナは不満と怒りによって顔が真っ赤になっているように思います。怒りで心がパンパンになったヨナは神さまに向かって怒りをぶつけます。

祈りの中で神さまを「情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊か」だと表現していますが、祈るヨナの心の中も、この祈りに先立ってヨナがニネベで伝えたメッセージも、情けも、あわれみも、恵みも感じられません。ヨナのメッセージは偏った「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。」というものでした。それにもかかわらず、ニネベの人々の心は動かされたのです。神さまがヨナにニネベに行ってほしかったのは、それが偏っていたとしても、ヨナが行って語る必要があった(そして、それに人々が応えてほしかった)からでした。

 ニネベの人々と対照的に描かれるのがヨナの姿です。不満や怒りに満たされて、一方的に自分の方が正しいと主張する姿がそこにあります。しかし神さまはヨナの怒りのボールを真正面からキャッチし、そのうえでご自身の深い思いを理解させようと働きかけます。

 ヨナの姿は、私たちの日常にもみられる鏡のように思います。日常生活の中で不満や怒りに心が支配されて、優しい言葉よりも荒々しいことばで、優しい対応より意地悪な対応で人に接していることはないでしょうか。

 また、親の心も思いも理解できずに一方的に自分の感情をぶつけてくる子どもがいたとしたら、どのように私たちは子どもを正しく導くことができるでしょうか。怒りに怒り、不満に不満の連鎖はどうすれば断ち切れるでしょうか。ヨナ書全体を通して「勝手にしなさい」と放り出さず、忍耐深く教え、導く神の姿がはっきりと見えるように思います。是非、聖書を開いて読んでみてください。

June 26, 2016

06/27(月)~07/01 (金) ヨナ① 「神様から逃げたヨナ」ヨナ書1-2章

お話の解説

主題:まことの神を恐れ。みことばに聴き従う。

目標:神の命令に従うことの大切さを知る。

 

 ヨナ書を読みながら「ピノキオ」を思い出す方がいらっしゃるかもしれません。ピノキオを捜しに出たゼッペットはクジラに飲み込まれてしまいます。ピノキオはこのゼッペットを助けに行きます。クジラのおなかの中でピノキオはゼペットと再会を果たし脱出に成功します。ここからがラストに向けてのクライマックスですが、ディズニー版のピノキオと原作では異なる点が多く、クジラではなくサメに飲まれたり、マグロが助けてくれたりということですが、もともと風刺文学だった原作をディズニーでは子どもが喜ぶような内容に変更したのです。ヨナ書がピノキオの背景にあるという主張もないわけではありませんが、定かではありません。

 ヨナ書の前半では、預言者として大事なお仕事をゆだねられたヨナでしたが、お仕事の内容に納得がいきません。「大嫌いな敵国ニネベに行って神のことばを伝えるなんて絶対したくない。敵国は神の怒りによって滅ぼされる方がいいに決まっている。(神さまは間違ってる!)」そんな気持ちでしょう。でもヨナさんをかばうわけではありませんが、この感情はヨナさんだけでなく当時のユダヤ民族の一般的な感情であったと思います。みんながそう考えていた。そう考えるのが当たり前という空気感でしょう。でも、やっぱり間違っているのはヨナさんの方です。神さまは悪い事ばかりのニネベの人たちも滅びることではなく救われることを願われていることをヨナの生き方、生きている現実全部を通して教えようとしているのです。逃げないようにストップさせるのではなく、逃げた中で取り扱われる。従わないからあきらめて投げ捨てるのではなく、ごめんなさいと心を入れ換える機会を造られる。神さまの特別のお仕事を投げ出さずに取り組むように機会を与えられる神さまの忍耐と愛があります。神さまに従わないという意味ではニネベの人たちもヨナも同罪なのです。でもこの両方を取り扱われる神さまの姿がヨナ書には描かれています。ヤダとか不満だ不機嫌だと感情をあらわにする本当に人間臭いヨナの姿を通して聖書の神は様々なメッセージを投げかけています。是非、ヨナ書を読んでみてほしいと思います。

June 19, 2016

06/20(月)~06/24(金) エステル② 「助けられたユダヤ人たち」エステル5-8章

お話の解説

主題:勇気をもって神のご計画に従う。

目標:神を信じて頼る者を、神が助けてくださることを知る。

 

 今年も3月24日にユダヤのお祭り「プリム祭」が行われました。ユダヤ暦では5776年アダル月14日でしたが、西暦に置き換えると毎年移動し、2017年は3月12日、2018年は3月1日になります。

 プリムという言葉は、くじを意味するヘブル語「プル」の複数形です。大臣のハマンがペルシャ帝国内でユダヤ人の虐殺日をくじ「プル」で決めたことがエステル記3章7節に記されていますが、「くじ(プル)」が契機となってユダヤ人の運命が大転換したため、この記念日を「くじの日(プリム)」と呼ぶようになりました。今でもプリム祭にはエステル記が読まれ続けています。

 虐殺を計画するに至る直接的な原因は、アハシュエロス王がハマンを取り立てて高い地位に就け、ハマンの前に跪いて拝礼するように命じたことでした。しかしユダヤ人モルデハイは神以外を礼拝しない信仰を堅持していたので命令に従いませんでした。それは、ただ単に礼をしなかったということではなく、礼拝しなかったというニュアンスです。神以外のお方を拝さない信仰が、悲劇の原因になりかけたが、この信仰のゆえに救われた。外国の異民族社会で生活するユダヤ人社会が体験した、「見えざる神の守護」というテーマがエステル記の最大のメッセージなのです。

 お話の中では割愛しているエピソードがあります。最初のパーティに招かれた夜の事です。ハマンはハマンでモルデガイを高さ2000mもの柱につるして処刑する算段を進めます。一方、王は眠れず、記録の書を読んでいたところ、王を殺害しようとする策略がモルデガイの報告により事なきを得た記録に目が留まり、その功績に報いようと思いを巡らします。そこへハマンがやってきます。もちろんモルデガイを処刑する許可を求めに来たのです。王はハマンに、「王が栄誉を与えたいと思う者にどうした良いだろうか」と問いかけます。ハマンは、それほどの人物は自分しかいないだろうと思い込みます。王妃のパーティに他の誰もが呼ばれず、王と共に自分だけが呼ばれるほどに、自分は今やこの国で王に次ぐ権力者に上り詰めたと思っていたことも一因でしょう。自分が望む報いを、こことぞばかりに申し述べるハマンに、「あなたが言った通りにモルデガイにしなさい」と王は命じるのでした。

 既にハマンからすれば歯車がかみ合っていません。レールが切り替わってしまったかのようにハマンの思い通りにことは運ばなくなっています。このように、二日目のパーティでは、すべての状況が神によって整えられていました。時に神は心の思いのままにことを進めることを許され、時に神の御思いを表すために留められることがあります。

 私たちの日常の生活においても、どうしてと思うような出来事が起こり、どう考えても理解できないようなことが許されているように感じることがあるのではないでしょうか?それらをどう受け止めるのか、またその中でどう生きるのか?エステル記は一つのガイド役を果たしてくれるように思います。是非、実際に聖書を開いて読んでみてほしいと思います。

 

 

神の守護が、神の主権によってもたらされるなら、どうして祈る必要があるのでしょうか?エステルもユダヤ人も神のあわれみを求めて断食し祈りに専念しました。神が助けてくださるようにと真剣に祈りました。神がことを行われることを求める信仰が表されているでしょう。そこにおいて自分の果たすべき役割を、責任を担っているエステルの姿があります。

June 12, 2016

06/13(月)~06/17(金) エステル① 「お妃になったエステル」エステル記1-4章

お話の解説

主題:置かれた場所で神の使命に従う。

目標:神が下さる特別な役割に、神から勇気を頂いて挑戦する。

 

 今週と来週の2週にわたって旧約聖書のエステル記のお話をします。エステル記の大きな特徴は、「神」や「主」という言葉や祈りや信仰などの宗教的な言葉が全く出てこないことにあります。しかし、その内容を見ると出来事の背後に、歴史の中に確かに働かれる神様の存在とエステルの信仰が、表面には見えることなく水面下に大きく広がる氷山のように描かれていることに気づかされます。

 アハシュエロス王は、クセルクセス1世とも呼ばれるアケメネス朝ペルシャの王で、ペルシャの5番目の王でした。時代はクロス王のバビロン捕囚からの解放令(BC537年)によりエルサレムへの最初グループの帰還から54年後、第二グループの帰還の25年前です。解放令によって帰還が許されているにもかかわらず、まだ祖国には帰らずに異郷の地に留まっていたユダヤ人たちの出来事としてエステル記は描かれています。

 本筋からいえば旧約聖書のエズラ記やネヘミヤ記のようにエルサレムに帰還し、都や神殿を復興し日常の生活を取り戻すという流れですが、スピンオフ作品のように同時期の帰還していない人々のエピソードを描き出しているのがエステル記なのです。

 とはいえ、エステル記に描かれているハマンの策略が実行されユダヤ人がすべて滅ぼされていたとすると、創世記から始まっているユダヤ人の歴史はここで途絶え、神さまがアダムの罪の結果、自分勝手に生き始めた人間を神さまのもとへと取り戻すという救いの計画もここで途絶え、イエス・キリストの降誕という出来事まで至らなくなる危険をはらんでいたのです。

 神さまはエステルを選び、多くの人々の好意を得させ、王の好意をも得させて王妃とし、民族存亡の危機から救い出すキーパーソンとして一人の女性を用いられました。神さまの最善を信じて自分のできる最高の選択をしていくエステルの姿と同時に、神さまが歴史の背後で御手を伸ばしてことが進むのをとどめたり、推し進めたりしている物語の本当の主人公は「神」であることがエステル記を読み解く大事な視点ではないかと思います。

 自分がこの場面に立っていたらどう行動するだろうか?現実の生活の中で背後におられる神を信じるにはハードすぎる出来事がたくさんあるのも事実でしょう。その中で神を信じるということが現実の生活と無関係な心の中だけの問題ではないことをエステルは語り告げているように思いました。是非エステル記全体を読んでみてほしいと思います。

June 05, 2016

06/06(月)~06/10(金) ルツとナオミ ルツ記

お話の解説

主題:本当の神に従う。

目標:本当の神を信じ、従う者となる。

 

 新約聖書のマタイの福音書1章にイエス・キリストの系図が記されていますが、「…ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。」(1:5-6)とあります。

 ルカの福音書にも系図がありますが、こちらにはヨセフからさかのぼる形で「…ダビデの子、エッサイの子、オベデの子、ボアズの子…」(3:31-32)と記されています。

 エリメレクとナオミ夫妻がモアブへと移住したのは、当時の飢饉が理由だったことがルツ記冒頭に書かれています。移住先でエリメレクが亡くなり、二人の息子はモアブ民族の中から妻を迎え10年ほどの生活の後に、息子たちも相次いで亡くなりました。そういった意味ではナオミ自身がベツレヘムに帰郷の後、友人たちに「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。」(ルツ1:20)と言っているように、(ナオミは「快い」と関連し、マラは「苦しむ」と関連した言葉です。)楽しいことも沢山あったでしょうが、悲しい思い出が大きく心を占める期間でもあったでしょう。

 ナオミはまだ若い二人の嫁に対して、自分の生まれ育ったモアブの地で新しい人生を生き直すことを強く求めます。兄嫁のルツも弟嫁のオルパも悲しみ、共にナオミとのベツレヘムでの生活を願います。それでもナオミは彼女たちがモアブの地で再婚し平和に暮らすことを強く求めます。弟嫁のオルパは義理の母のことばを受け入れ涙ながらに離れて行きます。

 一方、兄嫁のルツは、「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないでください。あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。 あなたの死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」(1:16-17)と強い思いでナオミと共に生きる決意を伝えます。

 

 ルツにとってベツレヘムは知人も友人も全くいない異国であり、多くの物を犠牲にしなければならない選択だったでしょう。しかし、それでもなおルツの選択は神様の大きな祝福に繋がることをルツ記は物語っています。

 モアブで生活していた一人の女性ルツは、エリメレク一家がモアブに移住しなかったら、またエリメレクの子どもたちと結婚しなかったら、彼らが信じる主なる神を知る事も信じることもなかったでしょう。ルツという一人の女性の人生にとって大きな意味があるだけでなく、イエス・キリストへとつながる系図が途中で途切れることなくつながり続けたという意味でさらに大きな意味があった出来事なのです。

May 30, 2016

05/31(火)~06/02(金) ザアカイ ルカの福音書19章1-10節

お話の解説

主題:イエスを信じて、新しい生き方に変えられる。

目標:イエスを信じて、神と人とを愛する心に変えられることを願う。

 

 当時のパレスチナ地方は、ローマ帝国の支配下にありました。このためユダヤ人たちはローマ帝国に税金を納める必要がありました。取税人たちはローマに雇われて同国人であるユダヤ人に対しての税金の取り立てを請け負っていました。そのうえ多くの取税人は、決められた額以上に取り立てて、そのお金を自分のものにしていました。このため取税人は「罪人」と呼ばれ嫌われていました。ザアカイは取税人のリーダー格でお金持ちだったと記されています。 

 彼の人生に転機が訪れます。それは彼の住むエリコの町にイエスが来られたことで、イエスと個人的な出会いをすることで起こりました。イエスのニュースはザアカイの耳にも届きました。しかし、群衆に囲まれたイエスを背が低かったザアカイは少しも見ることができません。おそらくザアカイに好意を示し、道を開けてくれる人もいなかったのでしょう。そこで先回りして木の上に登り、そこから見下ろすことにしました。

 そこへ来られたイエスは、ザアカイを見つけて「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」(5節)と語りかけられました。もちろんザアカイは「急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」(6節)のです。でも、その光景を見た周りの人々は「あの方(イエス)は罪人のところに行って客となられた。」(7節)とつぶやき、非難しました。誰もイエスの行動を支持する人がいなかった中で大胆に行動するイエスがいます。 

 人々のザアカイの評価は、「罪人」であり拒絶の対象。イエスの評価は「失われた人」であり捜し出して取り戻すほどに価値のある対象と見方は全く違います。確かにザアカイは、捜し出され、見出され、救い出された人です。聖書は二人の対話を事細かに記録していません。しかし、イエスとの出会いでザアカイの生き方が、価値観が本当に変わったことを的確に記しています。不正を当たり前のように行い、富を得たザアカイは、それを償い、また正しい目的のために用いる心に変えられました。

 ここまでイエスに出会った人々の物語をお話してきましたが、単に病気が直されたとか、問題が解決したということだけでなく、(もちろん、そのことも一人一人にとって大切な出来事ではありますが)イエスとの出会いが私たちの人生を変える「御国(天国)の鍵」であることを、心のどこかに覚えておいてほしいと願っています。

May 22, 2016

05/23(月)~05/27(金) 見えるようになった人 ヨハネの福音書9章

お話の解説

主題:イエスと出会うことで目が開かれる。

目標:救い主イエスと出会うことの素晴らしさと喜びを知る。

 

 生まれたときから目が不自由だった男の人がイエス・キリストとの出会いを通して体験したのは、視力の回復という出来事だけでなく、救い主を信じて喜びを持って生きる生き方でした。

 弟子たちの問いは、私たち日本人だけでなく世界のいたるところで、因果応報(人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある。)という考え方が見られる事を示しているように思います。しかし、ここでイエスは、そのような思想に対して明らかに異なる回答を提示しています。

 それは、人生の中で経験する苦しみは、悪い行為に対する報いでないという回答です。私たちが実際に目にする現実は、善人に悪い事は起こらず、悪人に良いことは起こらないというような単純なものではないでしょう。良い人にも問題が起こるときがあるし、悪い事を続けていても幸せそうに過ごしているのを見つけることがあります。しかし、問題に直面することを通して神ご自身を経験する(神の存在と神が私に関わってくださるということを知る)鍵が隠されていることを示唆しているように感じます。

 この個所で、「目が見えること、目が見えないこと」は、実際に視力が失われた状態で、ものが認識できないという意味で「見えない」ということと、神さまが存在され神さまが働かれている現実に直面しても、そこに神の働きを「認められない」ことの二重写しで描かれています。

 

 この人が経験したのは、視力の回復という実際に見えるようになったことだけでなく、自分に神が働かれた現実を神がなされたと認めることのできる心を持ったことと言えるでしょう。目が見えるようになったということだけでなく、まるで別の人のように周りの人たちに見えた様子が聖書には描かれています。それは希望や喜びをもって生き生きと生きている様子が以前と全く違うことを示しているのでしょう。

 パリサイ派の人々は自分たちの枠組み、自分たちの理解の中で正しい事と間違っていることを判断しようとしたことで、見ているけど、聞いているけど理解できない、認められないことに直面したと言えるでしょう。むしろ何も先入観のない人の方が、本質を理解し正しく受け止めることができたことを物語っているでしょう。

 自分の理解を超えたことに直面した際に、自分の枠組みを再構築することが出来たら、目が見えずに生きていた人が光を取り戻したことを共に喜ぶことがきっとできたでしょう。そう考えると決して他人事ではない人生の鍵が隠されているように思う個所です。

May 15, 2016

05/16(月)~05/20(金) 病気を治してもらった人 ヨハネの福音書5章1-9節

お話の解説

主題:心の求めを知っておられる主に信頼する。

目標:イエスは、私たちに一番必要なことをご存知で、助けてくださることを知る。

 

 今日のお話の舞台は、エルサレム郊外にあったベテスダ(ヘブル語で「あわれみの家」の意味)という池です。池と呼ばれてはいましたが大きな四角いプールのようになっていて、周りには回廊が造ってありました。ここには、「大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せって(3節)」いました。それは天使が池の水を動かしたときに水の中に最初に入ったらどんな病気でも治ると信じられていたからでした。

 そういう意味では、湯治のようにみんながお湯に入って世間話をしているという和気あいあいの光景ではなく、みんながいつ動くのか、今か今かとじっと池を見つめて待っている、自分が最初に入るんだ、次こそは誰より先に飛び込んで治るんだ!そんな雰囲気を思い描けるようにも思いました。

 しかし、そこにいるたくさんの人の中でイエスご自身が声をかけられたのは、たった一人の男の人でした。彼は38年も病気のために伏せっていたのです。どんな病気だったのか、いつからこの池で過ごしているのか、何歳くらいの人なのか、そうした情報は何も書かれていません。ただ長い間病気で、この池で水が動くのを待っている人で人でした。イエスは「よくなりたいか(6節)」と問いかけられます。

 問いかけられた人は、問いかけた人物が誰なのか知りませんでした。なぜ唐突にそんな質問をしてくるのかと思ったかもしれません。彼の答えは「私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。(7節)」でした。治りたいからここにいる。水が動いたときに入りたいからここにいる。でも、一番に入ろうと頑張ってみたが駄目だった。誰も自分の事なんて助けてくれやしない。そんな思いが見え隠れしているようにも思いますが、ストレートな問いに、ストレートに答えられない男の人の姿があります。

 それでもイエスが問われなかったら、考えなかったことがあるかもしれない。イエスが問われなかったら気が付かなかった自分の思いがあったかもしれない。「よくなりたいか」という声が、こだまのように心の中で響き渡るときに、よくなりたいと思っている自分の心の奥底の願いが共鳴して震える…そんな経験をするのです。問を発せられたイエスは、人生を変えることができる方です。心の奥底にある思いを、願いを大事に受け留めてくださるだけでなく、豊かな人生の導き手なる方なのです。

May 08, 2016

05/09(月)~05/013(金) 「ありがとう」と言った人 ルカの福音書17章11-19節

お話の解説

主題:神の恵みに感謝する。

目標:すべてのことについて、神に感謝する。

 

 今月の御言葉は「すべての事について、感謝しなさい。」(テサロニケ人への手紙第一5章18節)です。当たり前の事と思わず、神さまの恵みに感謝する心を持ちたいと願わされます。当たり前と思うなら、当たり前のように過ぎ去っていくでしょうが、感謝する心は、うれしいと思える心、分かち合う気持ちに広がっていくように思います。

 今週のお話では、10人の思い皮膚病のために、隔離され、人との関わりを絶たれていた人々がイエスとの出会いを通して癒されたと告げています。

 治っているわけではないのに、イエスのことばに従って、「イエスさまが言うのだから」と、その言葉を信じて行動した10人です。祭司に治ったことを確認してもらうために進んでいく途上で、きれいに治っている自分自信を見つけ、そしてきれい治っている友達を見つける10人でした。

 重い皮膚病のために彼らはいわば普通の生活ができず、コミュニティからも隔離されて生きていました。それは、病気の間は「ケガレテイル」とされ、コミュニティの外に住み「ケガレテイル、ケガレテイル」と叫んで知らせなければならないと律法に規定されていました。皮膚病が治ったら日常の生活に戻れる、家族と一緒に過ごせる。治った人たちはどんなに嬉しかったかわかりません。おそらくイエスさまの言われた通り真っすぐに祭司の元へ行き、治ったことを確認してもらい「きよい」と宣言してらったのでしょう。

 治ったことはとても大きな喜びでしたが、直してもらえた感謝は後回しにされ、そのまま過去のことになってしまったように思います。日常生活にそのまま戻った9人は、日常生活を当たり前のように取り戻せたように思います。それは以前と変わらない生活と言えるかもそれません。

 たったひとりだけ、ありがとうの気持ちを行動で表わした人だけが、喜びが広がり、与えられた喜びを、憐れみを分かち合っていく豊かさへと新しい生き方へと押し出されていったように思わされます。

May 01, 2016

05/02(月)~05/06 (金) お母さんいつもありがとう (母の日礼拝)箴言23章25節

お話の解説

旧約聖書 箴言23章25節「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。

 

 今週は母の日に寄せて、子どもたちに箴言からお話します。

お話の中では子どもたちに「お母さんありがとう」と伝えることの大切さをお話します。けれども、このことを一つの機会として親が子どもの人格と存在を喜び、そして子どもたちと一緒に過ごせることがどんなに喜びであり、どんなにうれしいことであるのかを言葉にして子どもに伝える機会を持ってほしいと思います。

 一緒に過ごす楽しい時間が、何よりも「うれしい」の気持ちが詰まっていて、時間を共有できることこそが無言のメッセージなのかもしれません。でも、やっぱり言葉にして態度にして伝えることが大切でしょう。(それは親子の間だけでなく、夫婦の間でも、友人や仕事の同僚などの関係の中でも大切なことです。)

 伝えられた子どもたちは、そのことを通して伝えることの大切さを学ぶでしょうし、伝えてもらうことがどんなに心に残るかを経験するでしょう。子どもたちは、お父さんのこと、お母さんのことが大好きです。そして、お父さんもお母さんも子どもたちのことが大好きでしょう。お互いがお互いを大切に思い、お互いが感謝の気持ちを伝えあえることができる関係は、なんて幸せなことでしょうか。

 社会の最小単位は、「家庭」ですが、この一番小さな社会における人間関係がとても幸せなものであり、そこで経験することが、幼稚園での人間関係やもっと大きな人との関わりの中に広がっていくことを思い描きながら、今週はありがとうを伝える大切さが子どもたちの心に残ることを祈ってます。

April 24, 2016

04/25(月)~04/28 (木)  イエスさまの教えてくださった祈り

お話の解説

 今週は「主の祈り」をテーマにお話をします。まだ年少さんは覚えていませんが、もう少しすると年中さんや年長さんたちと声をそろえて一緒にお祈りすることができるようになってきます。御国幼稚園で初めて経験するお祈りの習慣の一つが「主の祈り」です。

 

 この「主の祈り」は、イエスさまがこのように祈りなさいと教えてくださった「私たちの祈り」です。最近ではキリスト教会の中でも口語文での「主の祈り」が祈られるようになってきましたが、まだまだ礼拝の中では下記のように文語文の祈りの言葉が多く用いられています。御国幼稚園でもこの祈りの言葉を用いています。

 

天にまします我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日毎の糧を今日も与えたまえ。我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みに会わせず、悪より救いいだしたまえ。国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

口語文の「主の祈り」は次のように訳されています。

天におられるわたしたちの父よ、み名が聖〔せい〕とされますように。み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。

アーメン

 

こども向けの主の祈りとして意味訳されたものも紹介したいと思います。

天にいるわたしたちのお父さん(かみさま)、私の心にかみさまがいつも一番でありますように。

私をかみの国に住んでいるものにしてください。かみの国でおこることが地上でもおこりますように。

私たちにひつようなものを毎日じゅうぶんにあたえてください。

私たちの罪をゆるしてくださったように私たちも互いにゆるします。

私たちがわるい考えで試されたり誘われたりすることから守ってください。

この世のすべてを合わせても一番力のあるかみさまへ、おいのりします。アーメン

April 17, 2016

04/18(月)~04/22 (金) 神さまの造られた世界

お話の解説

  今月の聖書の御言葉は「初めに、神が天と地を創造した。」という創世記1章1節が選ばれています。聖書は開口一番(聖書全体の最初の一頁目の一行目に記されていることばにおいて)私たちに「神さまの存在」と「世界を造られた」ことを物語っています。

 ここで「物語る」という表現を使いましたが、聖書の多くの部分は、ナラティブ(narrative)という文学形式が用いられています。このナラティブという言葉を日本語に訳すと「物語」になります。「物語」と表現するとフィクション(つまり作り話という)イメージが思い浮かぶかもしれません。物語は、「始まりがあり、主要な登場人物がおり、筋がある。各章ごとに、波乱と進展、どんでん返しがあり、そして全体に意味を与える結末がある」ものです。聖書は、この世界を造られた「神」が主人公の「神の物語」を描き出している書物と言えます。

 

 聖書の旧約・新約全巻を通して貫かれている世界観は、神がこの世界を造られ、人間に管理者としての役割を委ね、この世界を守り、造られたものを治めさせ、神が創造者であり、統治者であることを指し示す存在として人間をこの地上に置かれました。しかし、人は神の支配に対して反抗します。(命令―あるいは約束、言いつけを守らないのです。)しかし、神は人間の反抗にもかかわらず人間をあきらめることなく、最終的には人間をはじめとする全被造物と神との間に愛の交わりを回復し、それを楽しむことになるという世界観なのです。

 

 日本の春は、緑にあふれ、さまざまな花が色とりどりに咲き誇ります。目を上げて、周りを見渡すときれいだなと感じるたくさんのものが目に入ってきます。神さまが造られた世界を美しいと感じ、美しい自然をくださった神に感謝し、神さまが造られたものを草や花や小さな命をも大切にいつくしむ心の養いを願って、初めての聖書のお話を子どもたちに語りかけています。

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